第四十九章第二節<Demise Bringer>
柄と僅かばかりの刀身を残し、砕け散った剱の残骸を手にしたリルヴェラルザが立ち上がる。
L.E.G.I.O.N.の一人、符呪師ノルベルトの撃破と引き換えに失った水剱には、最早殺傷能力は残されてはいない。
折れた剱では、役には立たぬ。リルヴェラルザの剱技が、刃による直接殺傷系ではないことだけが救いであった。
ぐっと柄を握る指に力を込めると、床を濡らす水滴がふわりと浮き上がる。それらはリルヴェラルザの攻撃の意志を汲み取り、微細な刃となる。
先刻の戦闘で、ノルベルトを肉塊に変えたリルヴェラルザの技。一度に操作できる水や氷の刃には限度はあったが、それでもたとえ砕かれたとしてもすぐに再生ができるという、流体の特性を生かした点は驚異的である。
シャトーを包囲するように浮かび上がる氷の刃は五十を超える数だ。
これだけの攻撃を受けたなら、普通は原型すら留めぬ骸と成り果てる。
高速で移動、回転、旋回を繰り返す微細で鋭利な刃は、視認は愚か回避することすら容易ではない。氷の刃の切っ先をシャトーに向け、殺意を宿した視線で見つめるリルヴェラルザは、一瞬の逡巡ののち、解放。
波のような音声を響かせて繰り出される致死の冷風は、しかしシャトーの躰に触れる寸前に悉くが四散する。
あまりに無防備な姿勢にその存在を疑っていたが、シャトーはやはり、魔術障壁を纏っていた。魔術師の欠点を補うために編み出された護身用の魔術が、強力な力場となってシャトーを包んでいるのだ。
まずはこれを破らなければ、シャトーを倒すことは出来ない。
千載一遇の好機を、逃すわけには行かない。
そう考えたときであった。
背を向けるシャトーが、びくりと硬直する。
先刻までとは比べ物にならぬほどの激痛がその身を苛んでいるのか。食い縛った歯の間から漏れてくる呼気は荒く乱れ、獣のような息遣いに肩が激しく上下する。
「……共食い、だね」
血の気を失った白い顔のまま、ニーナは壁に手をついたまま頷いた。胸の出血はかろうじて止まっていたが、それでも激しく動けば再び胸部の太い血管が弾けることは間違いがなかった。
戦闘行為は無論、高位魔術の際に生ずる高揚感からの血圧上昇すら危険であろう。
「共食いだと?」
リルヴェラルザが訝しむ視線を向けると、ニーナは義手の指先でL.E.G.I.O.N.らを指差した。
闇の槍で貫かれながら、残る九人は全て、シャトーに対して憤怒の形相を向けているではないか。
己を縛る魔術に、L.E.G.I.O.N.全てが抵抗しているのだ。
槍は九本。
それぞれから逆流する解呪の負荷は、全て術者であるシャトーの元へと送り届けられる。魔術の影響範囲を広げ、さらにそれが恒久的に力を及ぼすものであった場合、付随して発生するデメリットがこれであった。
手練れの術者でもなければ、一度に複数の魔術を行うことは至難の業である。写本の護りの光を解き、同時に逆流するL.E.G.I.O.N.らの魔力に抵抗し、さらには闇の槍を構成する呪文が崩壊することなく強度を維持し続ける。
これだけでも三つの術を同時に紡がなければならないのに、それに加えてここにいる六人がシャトーへと攻撃を開始すればどうなるか。
「行くよ」
義手を前に突き出し、ニーナは残る脳内魔術文書を解凍展開。
眩暈すら感じるほどの魔術高揚が全身を包み、体温が上昇する。
半ば強制的に魔術瞑想に切り替わる精神は、既に痛覚すら感じてはいない。塞がりかけていた胸の傷から鮮血が噴出すが、ニーナは気づくことなく魔術を継続。
>He raises the poor from the dust and lifts the needy from the ash heap.
>he seats them with princes, with the princes of their people.
聖書詩篇の文面が流れ、守護を担う魔術を解呪。
シャトーは急速に浸食されていく防禦障壁に回すだけの魔力を紡ぐことができず、障壁を放棄。繋ぎとめていた拘束力が失われ、ずるずると軟体生物のように魔力が地に落ち、消失する。
反応がなくなったことを確かめたニーナの躰が、ぐらりと傾ぐ。
出血多量による貧血のために、意識が失われたのか。
だがしかし、好機は確実に訪れた。
恐らくL.E.G.I.O.N.の抵抗が弱まった頃合を見て、シャトーは必ずや防禦障壁を再構築する。
このままでは、丸腰のまま戦場の中心に立っているようなものだからだ。ニーナの決死の覚悟で四散させた障壁が戻るまでの時間だけが、自分たちの攻撃が有効なのだから。
生半可な術では、シャトーは殺せない。
「上帝勅あり、速やかに青雷を起こし、此の符命に准じて徘徊を得ずして神威を一振し、万魔を灰と成せッ!」
「生は灘の池水つもりて淵となる。鬼人に横道なし、人に疑いなし、教化に付かざるに依りて時を切ってすゆるなり……死他のふたへも推してする」
クレーメンスとフィオラ、二人の口からそれぞれに呪言が放たれる。
一音ずつに込められた強烈な言霊が大気を震撼し、シャトーの周囲で激流となる。クレーメンスの言霊は青白い炎を宿した仁王剱、フィオラの呪力は神祓の比礼となってシャトーを縛る。
降り注ぐ桁外れの霊圧に、シャトーが振り仰ぐ。
その顔には、ただ一つの感情しかなかった。
すなわち、驚愕。
人の身でありながら、これだけの呪力を紡げる存在がいたとは。
間に合わぬ。
一瞬ののち、鼓膜が破れるのではないかと思われるほどの衝撃を伴い、二つの攻撃がシャトーに激突した。
シャトーを縛り上げ、結印ができぬように両腕を左右に引き。
まるで十字架のようにシャトーの躰を固定し、身動きが取れない状況に追い込む。その無防備な躰に、燃え盛る数本の仁王剱が、一片の慈悲もない速度で突き立てられた。
どれだけの時間が経っただろうか。
暴れ狂う光が収まりかけてきたとき、どこからか聞こえてくるのは、ぎしぎしと何かが軋む音。
徐々に目が慣れてくるに従って、その場の状況が少しずつ、見えてきていた。
嫌な匂いのする煙の立ち上る只中において、シャトーはいまだ立っていた。
否、立たされていたというべきか。
フィオラの比礼に両腕を戒められたまま、シャトーは緩慢な動作で前後に揺れていた。
躰に突き刺さっている巨大な仁王剱は、未だに浄化の炎を噴き上げている。その炎に身を焼かれながら、しかしまだシャトーは生きていた。
ざり、と足下の瓦礫が崩れ落ちる音がし、シャトーの頭が上がる。視界の先には、写本の光があった。
「……あ……ッ」
それでもなお力を求め、足掻く。
ぎしりと肩の関節が悲鳴をあげ、そしてずるりと千切れた。
右腕を失い、シャトーが一歩を踏み出したときであった。
ついに闇の槍が、澄んだ音を立てて砕け散った。
同時並行での魔術を支えきれなくなったのか。
それはすなわちシャトーの命脈が尽きかけていることを意味していたのだが。
同時に、闇の槍の喪失は、九人のL.E.G.I.O.N.の解放をも意味していた。
一斉に襲い掛かる先には、しかしシャトーはいなかった。
何故なら、この段階でシャトーを殺すことは、自分たちを召喚した術師を殺すことになるのだから。
写本なしで魔力を維持することができないとしたら、L.E.G.I.O.N.が取る行動は一つ。
六人の人間の抹殺。シャトーを殺そうとする六人をまず排除しなければ、自己の消失に繋がるからだ。
九人のL.E.G.I.O.N.それぞれが、シャトーに向けていた激昂の情をそのままに、こちらを向く。
ある者は剱を抜き、ある者は呪力を練り、ある者は冷ややかな笑みを浮かべ。そして無言のまま、六人へと攻撃を放たんと飛び掛ってくる。
迫り来る死の現実。
どう足掻いても、その運命からは逃れられぬと、覚悟を決めようとした、そのとき。
「あなたたちに、私は殺せない」
その声は、セシリア。いつしかシャトーの背後に回りこんでいたセシリアは、手に持った小銃をシャトーの後頭部に押し当てる。
その顔には、聖女のような笑みが浮かべられていた。
この男さえ、この者たちさえいなければ。
この世界を破壊しつくす、こんな戦乱は起きなかったはずだ。愛する者も、友人も、失うことはなかったはずだ。
L.E.G.I.O.N.さえいなければ。
かつての世界が、決して楽園と呼べるものではなかったことくらい、セシリアだって知っている。
けれど、それでも。
数多の悲劇を生んだこの男だけは許せない。
「……さようなら」
セシリアはそう呟き、そして引き金を引いた。