第四十九章第一節<Wizard with blue eyes>
紫の繭から生まれ出た金髪の男、シャトー・ムートン・ロートシルト。
白い長衣を纏ったその姿は、まるで異形の繭から孵った美しき蝶のように。眩いばかりの金の髪と整った造形が、その幻想を助けているようでもあった。
脱力したままの躰で、床に触れた膝は一度折れ曲がる。そのまま倒れ伏すのではないかとも思われたが、シャトーは何とかその場に踏みとどまった。
ぐらりと傾ぐ躰を支え、シャトーは顔を上げる。
この男が、本当にL.E.G.I.O.N.を束ねていた者なのか。
表情には力が、瞳は覇気もない。躰つきこそは整っていたが、何よりシャトーには力が感じられなかった。今にも眠りに落ちてしまうのではないかと思えるばかりに弱々しいその姿には、支配者たる風格は感じられなかった。
しかし現実に、十人のL.E.G.I.O.N.は悉くが闇色の槍によって床に縫い止められている。前傾姿勢のまま、不自然な体位のまま、動きを封じられている。
見ればその身を貫く槍は、魔術によって生み出されたものであることが分かる。形状は大きくは変化しないものの、目を凝らせば槍の輪郭では細かくちりちりと短い毛が風になびいているようにも見える動きがある。微かではあるが、それは魔力の散逸現象から起きる特徴であった。
「……お目覚めに、なられたのですね?」
押し殺した声のまま、執事服のアルベルトが顔を上げる。声をかけられたシャトーは、首だけを動かして振り向く。
「写本を、どうするつもりなのだ?」
その言葉と共に、シャトーの全身を凄まじい濃度の魔力が包み込んだ。
先刻までの姿からは想像も出来ぬほどの霊格。まるで生れ落ちてすぐの鹿の子どものように、立つのがやっとであった姿が嘘のように。
シャトーは天蓋を見上げ、そして周囲に漂う魔力を感じ取る。蓮華座の付近で倒れたまま動かぬオルガの姿を見つけると、シャトーはアルベルトに背を向けたまま、続けて問う。
「四つの写本は……どうした?」
「は、それが……」
言い淀むアルベルトであったが、事実を隠せようはずもなかった。写本はその全てをデータベースとして、しかも有機結合した生体脳を用いた膨大な記録容量を利用し、オルガの意識の中に保存していたのだ。
そのオルガが倒れ、そして周囲に写本を示すだけの魔力濃度を持つ存在が感じられぬとなれば。
「飛び去った、か?」
武具の形となった写本は、<隻眼の龍>への攻撃が無効であると知るや、恐るべき速度でこの世界を離脱していった。
残る写本は二つ。
<輝ける御遣い>を持つ西園寺万葉、<愁空の泪>を持つセリアのいる世界へと飛来し、そしてそれぞれと融合を果たそうとしているのだろう。
「オルガが死に、写本が散逸をした……それはまあいい」
静かに歩み寄り、シャトーはアルベルトの正面に屹立する。
「それよりも、お前は何故……写本を持って来ない?」
別世界での戦乱で、聖印の守護者からの攻撃を受けたシャトーは、己の肉体と霊力の回復のため、自らの式神をこの世界へと送り込んだ。
科学と魔術が融合した世界、Jardin d'ordreにて彼等が目をつけたのは、L.E.G.I.O.N.と名乗る集団であった。
二つの勢力のどちらにも与せず、如何なる法にも縛られぬ自主独立を謳う彼等を変貌させたのは、まさにシャトーの駆る式神らであった。
<Taureau d'or>と<Dragon d'argent>、それぞれの勢力に対して適度な攻撃を加えることで両国間の緊張を作り出し、さらには両者の手札を巧妙に奪い、あたかも互いに敵視しあっているように見せかけることで、戦乱を勃発させる。
この世界に存在する写本は<隻眼の龍>。
戦乱の目的とは、存在のみが確認されている<隻眼の龍>を奪うための鏑矢であった。
はじめは両国のどちらかが、より強力な力を求め、<Kether>への道を開くと考えられていたのだが、現実には激戦の末に両者は相討ちとなり倒れた。
計画が破綻しかけた時点で、彼等十二人の式神は、己の力で<隻眼の龍>を奪取することを決定する。
しかしここで、彼等の魔術契約の間に綻びが生じていた。
自らに写本を与えるべく命じたシャトーはいまだ眠りから目を覚まさず、このまま命を落とすようなことがあれば、自分たちは消失するほかに道はない。何故なら、自分たちを構成している魔術は、シャトーの手によって紡がれたものであるからだ。
しかし、シャトーに頼ることなく写本を統合し、その力の一端を手にすれば、仮にシャトーが死んだとしても、恒久的な魔力の源泉を手にした自分たちは消失の危機を免れる。
両者を秤にかけたとき、彼等が離したのは主の手のほうであった。
まさか、このような間合いでシャトーが覚醒をするなど、彼等にしてみれば予想外の出来事であった。
身をかがめたまま答えないアルベルトを見下ろし、シャトーは小さく鼻を鳴らした。
「……やはりな」
踵を返すようにして、シャトーはアルベルトの前で手を一閃。
縋るような視線と、自らの策が破れたことへの歯噛みの綯い交ぜになった相貌のまま、アルベルトは動きを止めていた。白い長衣の裾を揺らし、歩くシャトーの背後で、闇の槍に貫かれたままのアルベルトの周囲で空間が揺れる。
その歪みを通して感じられる収斂した魔力に、アルベルトが狼狽する。
身動きができぬままの現状が、何を意味するのか。
「……ッ」
アルベルトの喉から漏れる言葉は、助けを乞う悲鳴か、それとも主への誹謗か。
そのどちらも言葉になる前に、アルベルトの全身に紫の短剱が突き刺さった。
数えることすら出来ぬほどの刃は、突き立ち、引き裂いては四散し、また中空に新たな刃を生み出す。
まさに命尽きるまで続くその拷問の前に、アルベルトは声を上げる間もなく、ボロ布のようになって床に落ちた。
最早、付き従わぬ従者に興味を失ったシャトーは、そのまま蓮華座の光へと近づいていく。
写本の周囲では、いまだに光の護りが存在している。写本武具すら打ち返したその護りは、果たしてシャトーの魔力に耐え得るのか。
シャトーは右手を伸ばし、光に触れようとする。
垂直に立ち上る光の筋は、右手が近づくにつれて内側へと歪む。
だが次の瞬間、シャトーの右腕は肘の辺りまでを残し、弾けた。己の血と肉塊を浴び、それでもシャトーは痛覚すら感じていないようであった。腕の断面には呪式が宿り、それぞれの蘇生典礼に綴られた文字列が円環を成して修復を開始。
何かに取り憑かれたように、シャトーはさらに一歩を踏み出した。
身を照らす光が強くなるが、腕の断面から漏れ上がる紫の瘴気の霧は止まらない。
シャトーの顔が苦痛に歪み、そして躰が二つに折れる。
今を逃せば、好機はなかった。
どれほどに強い魔力を有していようと、超絶的な式神十体を同時に拘束し続け、さらに写本を奪わんと結界の魔術を解除する呪文を組成。
それだけでシャトーの霊的能力の許容量は限界に近づいているはずであった。
魔術師の最大の欠点である、魔術行使中の防禦の手薄さ。それを突けば、この男に勝てるかも知れぬ。
からり、と砕け散った剱の柄を手にしたリルヴェラルザが、死力を尽くして立ち上がった。