間章ⅩⅩⅩⅩⅧ<輝ける御遣い>
すっかり日の暮れた時刻、校舎の廊下に足音がこつこつと響き渡る。
誰もいなくなった教室棟を歩いているのは、一人の女性。艶やかな黒髪が印象的なその女性の名は、西園寺万葉。
とっくに就業時間は過ぎてはいたが、万葉の性格を表しているかのような一部の乱れも無いスーツ姿は乱れることはなかった。しかし教師として厳格であるかと言えば、問われた生徒は一様に首を横に振るだろう。教師として、女性として、そして一人の人間として、万葉は生徒のみならず父母からも慕われる存在であった。
その足音が、ぴたりと止んだ。
右手に英語演習のプリントの束と記録簿を抱えたままの格好で、万葉は眼前の闇を見つめていた。
時刻は午後七時半。
とうに夕刻を過ぎ、闇は辺りに満ち溢れている時刻だ。
しかし、万葉の表情は鋭い。それは決して、昼間の万葉には見られないほどの、冷徹で揺ぎ無く、そして一切の情を排した貌であった。
教室の並ぶ廊下を半ばほどまで来た万葉の前に満ちているのは、闇色の闇。そして目を凝らせば、天井に等間隔に配置された蛍光灯の光の領域をじわりじわりと浸食する、意志を有した闇であった。
だが驚くべきは、そのような異形を目の前にしてなお、怯まぬ万葉であった。まるで恐怖という感情を忘れてきたような、凛と響く声で万葉は命ずる。
「退け、忌むべき者よ」
その言葉を受け、闇が蠕動する。
万葉の言葉には、力があった。聞く者の精神に働きかけ、世界の理に干渉する力が。それをこの国の呪術師は、言霊と呼んだ。
「ここは汝らの住まう地にあらず、疾く退け……さもなくば」
ぐん、と闇が膨れ上がる霊的錯覚が万葉を捉える。闇の中に身を浸す魔族が攻撃を放つ、と理解した万葉は、反射的に半身に構える。
だが次の瞬間、万葉は眉間に切っ先を突きつけられていた。
瞬きにも満たぬ間しかなかったにも関わらず、万葉の眉間数ミリの間合いに不気味な剱の刃があった。
万葉の全身を駆け抜ける電気信号が、人の神経回路の伝達速度限界を突破。熟練の剱士の数倍の反射速度で首を逸らせ、そして眉間があった場所を巨大な剱が擦過していく。
万葉はそのまま上体の動きを止めることなく、捻る。無手であった左手を大きく振りかぶり、左右を入れ替えるその動作の間に何処から出現したのか、彼女の指にはしっかりと黒い銃が握られていた。
何の躊躇いもなく引き金を絞り、夜の校舎の窓硝子が、至近距離で受けた銃声のためにびりびりと震える。
発射された弾丸は四発。だがそのいずれもが、今しがた万葉がやってきた廊下の奥に消えていった。
変化はない。そのままの態勢で、なおも万葉は銃を構えていたが、やがてほぅと息を吐き、身構えた肩から力を抜く。
いつしか廊下からは闇が消え、そして向かう先には一階へと下りる階段が見えていた。
今の剱は、なんだったのか。
自問する万葉は、しかし歩き出そうとした瞬間、激しい頭痛に足下がふらつく。
まるで灼熱の針を眉間に叩き込まれたかのような、神経を直接貫くような痛み。その感覚には、万葉は覚えがあった。
「……まさか……写本が……?」
己の意識下に、<輝ける御遣い>という写本の章を封じている万葉は、たった今自らを襲った剱から、同じ波長の魔力を感じていた。