第四十八章第二節<Final Opposition>
ゆらり、ゆらり。まるで死者が瘴気に中てられ、動き出すように。
最後の力を振り絞り、五人は立ち上がった。
その動きはあまりに頼りなく、そして紡ぐ言霊、霊力は脆弱だ。しかし、彼等を衝き動かし、駆り立てるのは、意志の力。満身創痍の躰を起こし、震える二本の脚で立つ。剱を握る手を、もう一方の手で握りこむ。
迎え撃つは、L.E.G.I.O.N.。
「大人しく、伏していればいいものを……」
その表情には、明らかに先刻までの余裕はなかった。
オルガを殺され、写本の結界を張られ、自分たちもまた追い詰められているということか。
フィオラはニーナの視線を感じ、横に顔を向ける。言葉こそ交わさなかったが、その眼差しは物語っていた。
もう一度だけ。もう一度、L.E.G.I.O.N.の一人に集中攻撃を仕掛け、その中の誰かを打ち倒す。
生半可な攻撃では通用しないことは、先刻の打ち合いで分かっている。集中攻撃でしか、現状を打破することはできぬ。
目標は誰だ。
そのときであった。
L.E.G.I.O.N.の頭上で、魔力が動く。
フィオラもニーナも、まだ動いていないのに。
ならば残る可能性は一つ。
「天円地方、律令九章、吾今下筆、万鬼伏蔵、急々如律令ッ!」
鬼神を服命させるほどの気迫をもって、クレーメンスの口から道教呪が響く。
一瞬の静寂ののちに降り注ぐ、悪鬼伏滅の神剱。魔力が鋭い刃の形状を成し、文字通り雨霰と化して襲い掛かる。それだけの呪術を操るには、クレーメンスの精神には相当の負担がかかっているであろうことは想像できる。
苦痛に耐えるクレーメンスは、しかし攻撃の手を緩めることはしない。
もし激しい頭痛に負けて呪術を中断すれば、恐らく彼等は反撃に転ずるだろう。驚くべきは、あのL.E.G.I.O.N.がクレーメンスの呪術に対して防戦一方になっていることだ。
理由は分からぬ。隙を作っているだけなのか、それとも他の理由があるのか。
だがどちらにせよ、これは好機であった。
たん、と床を蹴り、それまで動けぬほどの激痛に囚われていたことを忘れさせるほどの動きでリルヴェラルザが向かう。
狙いは、老齢の符呪師ノルベルト。
L.E.G.I.O.N.と神剱の間隙を擦り抜け、そしてノルベルトの眼前まで迫ったリルヴェラルザは、水剱の能力を解放。刀身を構成していた結晶が砕け散り、代わりに溢れ出すは紺碧の奔流。剱を失うことと引き換えに繰り出す、最後の秘技。
L.E.G.I.O.N.の隊列の中から天蓋を突き破らんばかりの勢いで立ち上るのは、蒼色の龍。
その魔力の濃度を感じ取ったのか、L.E.G.I.O.N.が弾けるように散開した。
これまで決して退くことのなかったL.E.G.I.O.N.が散るとは。
だが残されたノルベルトもまた、超絶的な実力を秘めた符呪師であった。
袖の裏から取り出した数枚の呪符に咄嗟に力を込め、右腕を一閃させて投じる。呪力でくくられ、短刀のごとき鋭さを持った符が次々に龍に命中する。苦悶に身をよじらせる龍は、牙を向いて直下へと瀑布のように雪崩落ちる。
凄まじい水圧を伴って繰り出されるリルヴェラルザの水技に、ノルベルトは。
猿のような矮躯をかがめ、そして床を蹴って攻撃圏内から離脱を図る。
「させないわ」
呪力も特殊能力も帯びない、その攻撃。セシリアの拳銃から射出された弾丸は、ノルベルトの太腿を打ち抜いた。紅が弾け、苦悶の声が上がる。
効いたのか。
動きを止めたノルベルトに、躊躇う必要は無かった。
ニーナが胸の痛みを堪え、代理詠唱を開始。さらなる追撃として、典礼魔術一週間分の魔力を瞬時に呼び起こし、風を剱の形状へとくくり上げる。
セシリアの拳銃が効いたということは、ノルベルトの防禦障壁はないと見てよかった。躊躇うことなく風を纏った剱が次々とノルベルトの長衣を引き裂くかと思えた瞬間、翁の矮躯はみるみる蝟集し、そして一枚の呪符に変化。
絶妙のタイミングで繰り出された、式符による回避魔術であった。
代わりに頭上から凄まじい殺気が降り注ぐ。
こちらが本物のノルベルトというわけか。動きは愚か、呼吸すらままならぬほどの衝撃と圧力に、全員が死を覚悟したとき。
「……甘い」
ニーナは一度四散した呪風を再度魔術で纏め上げる。
不完全ながら一度目の攻撃と同程度の風の剱を出現させたニーナは、頭上で呪符を展開せんと身構えるノルベルトへ、発射。
さすがのノルベルトも、二段構えの攻撃までは予測していなかったのだろう。
それとも、弱者を相手にしているという油断からか。振り仰ぐことも出来ぬまま、胸の痛みに身を屈めるニーナの上から、肉を裂かれる者の断末魔の呻きが上がる。
やったか。
「……風すなわち木気は水によりてさらに震わん、水の龍よ剱となりし風を助けん」
フィオラの魔術が二つの魔術を結びつける。
五行思想において、それは水生木の理論によって定義づけられている。相生の関係に置かれた魔術的要素は互いに打ち消しあうことなく、相互増幅を生じさせる。まさにリルヴェラルザの水剱とニーナの風剱は、絶好の相性であったというわけだ。
風がノルベルトを包む牢獄となり、高速回転を開始。中央部分に閉じ込められたノルベルトのいる領域の気圧が低下し、同時に酸欠状態に陥らせる。
だがそれは緩慢な死とはならなかった。高速攪拌によって温度の低下した水流は、風の中で氷結し、無数の微細な刃と針になる。それらは身動きの取れぬノルベルトを、ほぼ一瞬で血肉の塊へと変化せしめるには充分だった。
ぼたぼたと鮮血の降り注ぐ中、しかし六人は膝をついていた。
無理も無い。一対一では到底勝ち目の無い相手を、しかも凄腕の使役魔族を一人、撃破したのだから。そしてそれは、残る十人のL.E.G.I.O.N.に無防備な姿を晒すこととなった。
「同胞の死と引き換えだ…非力なる者よ」
十人それぞれが同時に攻撃態勢に入る。
それを受ければ、恐らく命はあるまい。そこに手加減はない。
当然だ。もはや、ここまでか。己の無力に臍を噛む思いのまま、既に力の入らなくなったままの躰で倒れ伏す幻影が、脳裏に浮かぶ。ほどなく致死の衝撃が全身を襲い、命運は尽きるだろう。
六人それぞれの口元に、自嘲の笑みが浮かんだ瞬間。
「写本の発見まではお前たちの責務……だが写本の支配までを任せた覚えはないぞ」
喚起される桁外れの魔力と、聞き慣れぬ男の声。
間髪をおかず、十人のL.E.G.I.O.N.それぞれを闇の剱が貫いた。
それぞれに纏っているはずの、物理攻撃すら弾き返すほどの魔力や障壁を易々と打ち破り、闇色をした剱はL.E.G.I.O.N.の背から腹へと貫通し、そして前のめりになる彼等を大地に縫い止める。
それは、あまりに異質な光景であった。
天井が突如、巨大な軟体生物を孕んだかのように、ぐっと滴の形に歪んだのだ。岩盤が砕けるでもなく溶解するでもなく、物質の特性自体を失わせるように。楕円形をしたその先端部は、紫の霧で覆われている。
ずるり、とその中で何かが動いた。
吐き気を催させるほどの瘴気と毒気。それらを撒き散らしながら、滴に亀裂が走る。
それはまさに、異形を産む狂気の繭。
生れ落ちたのは、黄金色の髪をした半裸の青年。
彼こそが、長き眠りに就いていたはずの男、L.E.G.I.O.N.の支配者――シャトー・ムートン・ロートシルトその人であった。




