第四十八章第一節<Weapons of Books>
意識が保てない。ともすれば、ふっと緊張の糸が緩み、暗黒の奈落へと身を投じてしまいそうになる。頬に押し当てられている床石の冷たさもとうに感じなくなってしまっている。全身を苛む打撲傷の痛みは、巨大な波となって神経を震わせている。
このまま眠ってしまえるなら、どんなに楽だろうか。
痛む筋肉と関節に鞭打ち、立ち上がったとしても、そこに勝機はない。これまで以上の攻撃をその身に受け、再び大地に倒れ伏すしか道はない。ならば、立ち上がる必要はないのではないか。
今の状況で、十二人のL.E.G.I.O.N.を退けられる可能性は万に一つも無い。
フィオラは霞む瞳を懸命に開き、そして写本に迫るL.E.G.I.O.N.らを見上げる。
近づいてきたのは、頭部の殆どを覆い尽くすバイザーを装備した少女。光の前で両手をバイザーに当て、ヘルメットのようなその器具を脱ぎ捨てると、こめかみと後頭部に内蔵された端子から伸びるコードを取り外す。
何をするつもりなのか。傷の痛みすら忘れ、フィオラは血に濡れた指に力をこめ、そして首を上げる。
「お前たちは、そこで見ているがいい」
五人を睥睨するアルベルトは、ステッキの先でこちらを指し示す。
「世界の絶望と震撼の声を……この写本を懐柔できれば、我等には最早壁はない」
オルガと呼ばれた少女は、さらに光に一歩踏み出した。両手を広げ、まるで愛しい肉親と抱き合うかのような、穏やかな表情のまま、さらに一歩。
その瞬間、オルガの背中で光が弾けた。着衣を損なうことなく溢れ出た光の奔流は、宙空で回転し、形を成し、幾重にも重なり、そして成長する。百、千、否それ以上の光の断片となったそれは、オルガの周囲で凝り、集い、羽ばたく巨大な二対の翼となった。
四枚の翼は、しかし互いに触れ合うことなく、揺らぎつつもゆっくりと打ち振るわれている。
フィオラはその光から、蓮華座にある写本と同等の力を感じ取っていた。
あの翼の一枚が、姿を変えた写本なのか。
オルガという少女を宿主として、四つの呪章は融合を果たしたのだ。自らを生み出すラウローシャスに復讐をするために。神都を飲み込まんがために。
その話を全て信じたわけではない。
しかし、眼前に繰り広げられた光景は、<隻眼の龍>の話を全て裏付けるものであった。
「写本、<隻眼の龍>」
オルガの瞳が、蓮華座の光を捉える。アルベルトの声に導かれるようにして、オルガが光を指差した。
「汝に命ず……我等が同胞となりて、神都の門を破る力となれ」
翼が浮き上がり、そしてオルガの元を離れた。
そして、見よ。それまでは目を射るばかりの光でしかなかった写本は、今や<隻眼の龍>の上空で制止する剱、槍、鉾、斧となっているではないか。
その威力は、数多の魔術師たちの観想を完璧に防ぎ切った活動可能領域<Kether>の守護結界を破壊するに足るだけのもの。
回廊では他のL.E.G.I.O.N.の手にあった武具となって、刃を第五の写本へと向けている。
あのときは、L.E.G.I.O.N.とて写本武具の支配に死力を尽くしていた。
だが、今回は違う。写本それぞれは、オルガを宿主として、そして自らの意思で武具となっている。
打ち込まれれば、恐らく無事には済むまい。それだけの威力を秘めた武具を四つ突きつけられたまま、光は揺るがぬ。
「……答えを聞きましょう」
オルガの言葉が、光に問う。
気の遠くなるだけの、沈黙があった。
そして。
「我が答えは変わらぬ」
その言葉が終わらぬうちに、武具は静止状態からの凄まじい加速を見せ、光に射出された。
今にも光が消失せんばかりの攻撃が打ち込まれる、と思った瞬間。
破裂音が響いた。
フィオラには、一体何が起きたのか、理解ができなかった。
ただ、武具が<隻眼の龍>の直前で停止し、そしてオルガの動きが不自然に止まったことだけは分かる。
やや遅れて、オルガの眉間からつぅと一筋、紅い雫が伝う。
それが銃傷であると気づくには、さらに数秒を要した。
眉間を打ち抜かれたオルガは、表情の消えた能面のような顔のまま、ぐらりと傾ぎ、そしてうつ伏せに倒れる。蓮華座の残骸にすがるようにして絶命するオルガ。
フィオラのみならず、その場にいて動けるもの全員が、銃声のした方角へと振り返った。
「……よぉ」
そこにいたのは、血染めの軍服を着た、銀髪の男。額と左眼から血を流し、左の眼球は眼底出血を起こしているのか、白目の部分にまで血の色が痛々しく滲んでいる。
銀色の美しかった髪はべったりと脂汗と乾いた血糊で額に張り付き。そしてまた、極度に疲弊しきった躰を引き摺りながらここまで辿り着いたことを示すかのように、壁に肩を押し付けるようにしてなんとか立っていた。
右腕に握られているのは、実弾発射型の拳銃。いまだ銃口から紫煙が立ち上るそれを回転させ、男は不敵に笑う。
「……楽しそうなことしてンじゃねぇか……俺も混ぜてくれよ?」
「クレーメンス!?」
上空の追撃艦隊の迎撃に出ているはずのクレーメンスが、ここまで到達しているとは。
いや、L.E.G.I.O.N.の全てがここに集結していることから、妨害はなかったのであろうが。
しかし、アンジェリークとフェイズからの音信がない。
後続部隊の中では一番遅れているクレーメンスよりも遅いということは、彼等は既に。
「貴様……!」
それまで柔和な顔をしていたアルベルトは、クレーメンスの不意打ちに怒りを露にしていた。ぎりぎりと奥歯を軋らせるその傍らで、異変は生じた。
今にも襲い掛からんとする写本武具を弾き飛ばし、<隻眼の龍>の周囲に結界が瞬時に展開された。内部からの攻撃すらも遮断する絶対防禦の結界は、一瞬の隙をついて<隻眼の龍>の最後の防壁となった。
蓮華座の直下から垂直に立ち上る白い光。それは円筒形を成し、全方位からの攻撃及び呪的干渉の全てを無効化する。光の出現と同時に弾かれ、くるくると回転しつつ後退した写本武具は、狂ったように攻撃を開始するが、堅牢な光の結界は一瞬たりとも怯みはしない。
これにより、L.E.G.I.O.N.は<隻眼の龍>を奪う術を失ったことになる。
だが、それだけでは何の解決にもならぬ。
如何なる手段が残されているのかは知らぬ。
が、それでも、<隻眼の龍>に頼るしか道はない。
今の自分たちに出来ることは、それまでの時間を稼ぐことのみだ。
ゆらり。
力の入らぬ脚を叱咤し、フィオラは立ち上がる。
同じくして、その周囲で同じように動く人影があった。限界に達しているであろう肉体ではあったが、倒れ伏している時間はなかった。一刻でも多く、一時でも長く、写本を護る時間を。
その決意に、五人は再び立ち上がった。