間章ⅩⅩⅩⅩⅦ<黒の淑女>
ラウローシャスと愛美が見守る中、魔法陣から現れた闇色の柩は、ふわりと浮き上がり、そして静止した。
息を呑み、身を固くする愛美。だがラウローシャスは優しく微笑み、そして愛美の肩にしわがれた手を置いた。
「大丈夫だ。あれは魔物なんかじゃない」
「でも……」
ラウローシャスを見上げる愛美の表情は強張り、瞳は不安と焦燥に揺れている。
この空間に来てから、一体どれだけの時間が経過したのかなど記憶にはない。しかし、それまではただ漫然と感じ取るしかできなかった自分の力が、しっかりと言霊と呪言、そして精霊との契約によって次第に魔術としての形を成して来ているのが、自分でも分かっていた。
そして、かつては写本に取り込まれながらも自我を護り抜いた愛美の強靭な精神は、今まさに実体化せんとしている相手が、闇の眷属であることを看破していたのだ。
今、何か手を打たねば大変なことになるのではないか。そうした焦りが幻影を生み、眼前に現れた漆黒の柩が禍々しいものに見えていたのだ。
否、それは確かに不気味な姿をしていた。愛美でなくとも、その光景には戦慄を覚えるだけの気配が漂っているのは紛れも無い現実であった。
だが、ラウローシャスは警戒は不要であるとだけ、言っていた。
敵ではないのなら、一体何者か。これだけの負の気配を撒き散らす存在とは。
その問いかけに自ずと答えるように、柩が開く。足下から立ち上る紫の光に照らされ、柩の表面には光沢が描く光の輪が浮かび上がるが、何故か奥までは光が届かない。
ずるり、と中で闇が動いた気がした。声を詰まらせ、短い悲鳴を上げる愛美の視線の先へ、ラウローシャスは声を投じた。
「久しいな、黒き闘士殿」
蝙蝠が翼を広げたように見えたのは、長いコートの裾であった。
柩の中から姿を現したのは、短く刈り込まれた頭髪をした男。袖口から覗く両手を黒い革の手袋で覆った、全身黒ずくめのその男は、柩から降り立つや、ラウローシャスに一礼を返す。
「ご無沙汰をしておりました」
「よい、そう固くなるな」
手を振り、気さくな言葉遣いで答えるラウローシャス。
「……待て、お前……誰かを連れておるな?」
黒衣の男はそれには答えず、たった今抜け出してきた柩の奥の闇に向かい、手を差し伸べた。
唐突に闇の中から少女の手首が現れた。男は少女の手を取ると、優しくそっと支える。
男に続いて魔法陣に足を踏み出したのは、まだ幼さの残る少女であった。腰まで届く長い髪を揺らし、闇色のドレスを纏ったその姿は、しかし限られた者しか持つことの許されぬ気配があった。
それは、すなわち、人の上に立つ者だけが持つ風格。この齢にして既に風格を有しているとは、この少女は只者ではない。
「……お前さんの娘……にしては、少し幼すぎるか?」
「ジェシカ・ウィンターズと申します」
告げられた名に、ラウローシャスは皺の刻まれた瞼を持ち上げて見せた。
「……では、<訓練>は済んだのだね」
「はい」
黒衣の男は大きく頷き、そして一歩を踏み出した。
「おそれながら、申し上げます」
黒衣の男は膝をつき、頭を垂れた。やや遅れてコートの裾がふわりと床に落ちる。
「聖印の守護者が神都へ向かい、そして写本は統合されつつあります」
「……何と」
「我が娘が写本の一篇を支配してはおりますが、それも時間の問題かと」
「……九朗」
傍らに立ち竦んでいたジェシカは、跪く男の名を呼んだ。
壬生九朗。それがこの、黒衣の男の名であった。
「……災禍は、まだ潰えていないのですね」
「ああ」
頭を垂れたまま、九朗は首肯した。