第四十七章第二節<Dark Triumph>
それは、まさに悪夢であった。
執事の姿をした初老の紳士を先頭に、ゆっくりとした足取りで光の間へと足を踏み入れるL.E.G.I.O.N.。
見目麗しい淑女もいれば、まだあどけない面立ちをした少女もいる。重厚な甲冑を纏った戦士もいれば、高位呪術を修めた老齢の男もいる。そしてそれらは一様にして、およそ人の常識では推し量れぬだけの戦闘能力を持った集団なのだ。
「あなたがたには、礼を言わねばなりませんな」
こつこつとステッキで床石を打ち、L.E.G.I.O.N.のアルベルトはゆっくりと広間の中へと足を踏み入れた。
「何せ、この扉は……我々の如何なる攻撃によっても破れず、そして打ち砕けなかったのですから……それがどうだ」
アルベルトは微笑を湛えたまま、背後を振り返る。視線の先には、大きく開かれた漆黒の扉があった。
「それも全て、あなた方が中へと入ってくださったおかげというもの……いやはや、これには大変に感謝しておりますぞ」
口髭を揺らし、微笑むアルベルトの背後から、ゆっくりと進み出てくる十一人のL.E.G.I.O.N.。
いけない。このまま、写本を彼等に渡しては絶対にいけない。今しがた、写本が見せてくれた悪夢のような世界の光景が、今まさにこの瞬間にも訪れようとしているのだ。
だがしかし、この相手を前に、どうすればいいというのだ。
こちらは五人、そのうち戦えるものは三人。傷を負ったニーナを除外すれば、二人。
あまりに絶望的な状況に、膝が細かく震えているのが自分でも分かった。
立ち向かえば、待っているのは死。
己の命を取るか、それとも大義のために死ぬか。
そのときであった。逡巡するニーナの前で、ふわりと白い衣が翻る。
はっとなるその視線の先に立っていたのは、イルリックであった。戦う術を何も持たぬか弱き乙女は、細腕をいっぱいに広げながら、アルベルトが蓮華座へと向かう道を阻んでいた。
「……おや?」
いささかなりとも、驚きの感情がアルベルトの相貌に現れた。イルリックの瞳から溢れる感情を読み取ったアルベルトは、しかしすぐにそれまでと同じ微笑へと戻った。
一片の容赦も無い、冷酷なる微笑へと。
「お退きなさい、お嬢さん」
「嫌です」
声を震わせながら、イルリックはその場を退かなかった。
「あなたたちに、この写本を渡すことはできません」
「ほう、ほう」
顎鬚を撫でながら、アルベルトは息を吐く。
「あなた方は……それから写本の存在を学んだのだね? いやいや、それは結構……それではあなた方を部外者として扱うのは、失礼に当たるというもの」
アルベルトはそのままの姿勢で半歩退き、そして道を空ける。
その背後には、深緑の長衣を纏う剱師バスティアーンが控えていた。腰に吊っている細身剱を目の当たりにし、イルリックの顔に恐怖が浮かぶ。
斬られるか。突かれるか。首か、腕か、胸か、腹か、脚か。戦き揺れる瞳の先で、だがバスティアンはほんの僅かに気配を強めた。
たったそれだけの殺気で、イルリックはその場に膝をつく。
圧倒的な殺気を浴び、神経に乱れが生じたのだ。呼吸が自由にならず、己の胸元を押さえたまま、苦しげに空気を求めて唇を開く。
だがその桜貝のような唇からは、涎が伝うのみ。噴出す汗と大きく見開かれる瞳。
「今一度命ず……除け、女」
だが、イルリックは呼吸を封じられてもなお、その場を動こうとはしなかった。
恐慌に囚われたままの瞳で、汗と涎に濡れた顔を上に向け、気丈にもバスティアンの姿を見据える。
その顔に命すら賭す気構えを見たのか、バスティアンの冷徹なる表情に変化が現れた。
「よかろう。ならばその決意を抱いたまま……」
女のようなバスティアンの手が剱の柄にかけられたとき、その額に紅い光の点が生まれた。
イルリックへの攻撃を牽制する目的か、セシリアの携行する小銃の照準が致死点に向けられていた。見ればセシリア以外の三人もまた、それぞれに構えに入っていた。
リルヴェラルザの水剱、ニーナの高速術式、そしてフィオラの霊力の昂ぶり。
それらを一様に感じ取ったバスティアーンの眉間に皺が寄る。
「小賢しくもなお、抗ってみせるとは……やはり愚者とは分からぬもの」
力が無いにもかかわらず、身の程を知らずして剱を抜くとは。
死すらも恐れぬという決意ではなく、それは死の意味を解せぬ蟷螂の斧。
ならば、己の行為が意味するところを思い知らせてくれる。バスティアーンの左右に、それぞれ二人のL.E.G.I.O.N.が身構えた。右にはモルガン、ヒュー。左にはマランジェ、アリス。
叩き潰すとしても、全力を出すことはさすがにはばかられるのか。それとも、儚き力程度で抗えると踏んだ者への、侮蔑の意か。
「こちらも五人、そちらも五人……もしそれでも剱を引かぬというのなら……我等を打ち倒してみるがいい」
教えてやろう。どう足掻いても埋めることの出来ない差というものを。歯を食いしばり、爪を立てたとしても、到達できぬ高みというものを。
戦いは、一発の銃声によって始められた。
バスティアーンに照準を定めたセシリアが小銃のトリガーを引く。
放たれた弾丸は、しかしバスティアーンを打ち抜くことは無かった。それよりも早く、超指向性運動エネルギーを瞬時に相殺するだけの威力の抜刀が、弾丸の軌道を直角以上の角度修正を行わせたのだ。
至近距離の発砲によって射出された弾丸を剱で打ち返すだけの使い手が、どの世界にいるというのか。だがその芸当ともいえる超技を難なくこなして見せたバスティアーンは、返す太刀筋で刺突を繰り出す。
その攻撃に対し、目標となったセシリアの反応は明らかに遅れていた。
否、動けなかったというほうが正しいだろう。
弾丸を弾く動作からの一連の攻撃行動は、常人の反応速度を完璧に超越していた。その攻撃を向けられたのが戦闘に熟達している者であったとしても、無傷でいられるかどうかは疑問が残る、それほどの雷速の攻撃であった。
だが剱の切っ先がセシリアの急所を貫く直前に、バスティアーンは異常な手ごたえを感じた。
刀身の周囲に広がる波紋。
一度剱を引き、再び繰り出す突きもまた、奇妙な波紋を空間に呼び起こすだけであった。怪訝に感じたその瞬間、その場に張り巡らされた結界は形状を変え剱を拘束。
設置型の待機呪術は、ニーナの脳内魔術文書から詠唱されたものであった。
義手に内蔵された神経融合回路を通じ、意識下に呼び起こされた呪式を高速多重詠唱、通常の数倍の強度を誇る結界を完成させていた。
バスティアーンの攻撃が結界に抵触した瞬間にニーナは軌道を予測して定点強化を行い、同時に二度とは訪れまい好機を狙い、結界を解除。呪式として構築されていた魔力を解き放つと同時に四散する前に再構築、不可視の鎖となってバスティアーンの自由を奪うことに成功した。
ニーナの呪式再構築と同時に動いていたのはリルヴェラルザであった。
アクアマリンのような半透明の結晶の剱を抜刀し、空気中の水分を凝縮、それを鞭のように収斂させる。剱に宿る魔力によって行うそれは詠唱を必要としないために、相手の虚を突き、また間合いの外からの攻撃を可能とする。
各個撃破。下手に攻撃範囲を広げ、損害を散逸させるよりは、単一の目標に波状攻撃をしかけ、戦闘不能に陥らせるほうが戦略的だ。
突如出現した水色の蛟は、拘束されたバスティアーンに狙いを定める。今にもその牙が深緑の長衣を引き裂くかと思われたそのとき、リルヴェラルザの視界に少女が飛び込んでくる。
暗い目をした、闇赤色の長衣をなびかせて。
「……私たちを、忘れているの?」
こちらが逆に隙を突かれるとは。
間合いの広い攻撃であればあるほど、懐に入り込まれた瞬間には脆弱だ。凍りつくリルヴェラルザの腕の中で、少女の足下から沸き起こる紅蓮の光。
「霧も瀑布となれば龍神となろう……けれどこれでは、春のせせらぎと同じ」
相手は炎術系の魔術師か。戦いの相性としては最悪だ。
「地脈の咆哮の前では、無残に消え散るのみ」
火炎の塔と化したその光は、瞬時にリルヴェラルザの元に集う水流を気化。凄まじい炎熱と共に渦を巻く衝撃は、いとも容易くリルヴェラルザの躰を吹き飛ばした。
「くッ……!?」
予想外の速攻を受け、フィオラは収斂させた霊力を式に組み込む。喚起される明王の神力によって、一矢なりとも報いようとするも、焦燥と狼狽に支配された精神では観想もままならぬ。
そして、これだけの猛者を前にして、そのような初歩的なミスを見逃してもらえるほど、この場は甘くは無かった。
「数多の咎人よ、疾く罪科の前に平伏し、骸となれ」
首筋に当てられたのは、鋭く研ぎ澄まされた鎌の刃。いつしか間合いに入り込んでいたヒューの持つ鎌が、頚動脈のすぐ近くにまで迫ってきていた。
殺されるか。
精神を埋め尽くさんほどに襲い来る死への絶望と諦観。
だがフィオラの意志は、その誘惑を撥ね退けた。
「汝に命ず、其は鈍き黒鋼とならん、刃をして切り裂くこと能わず!」
フィオラは霊力を紡ぐ式を、明王勧請から禁呪へと変更。ヒューの鎌の刃を禁ずることによって、致命傷を避けることはできた。
しかし頚椎を寸断されるだけの速度をもって繰り出される一撃から身を守ることまではできぬ。横薙ぎに払われる鎌を受け、受身を取る間もなく壁に激突するフィオラ。
それまで剱を縛られたまま、動きを止めていたバスティアーンは、瞬時に二人を失ったことを確認すると、残る三人に視線を落とす。
「これでわかっただろう……今のお前たちに、我々を止める力はない」
ぐん、と力任せに右腕を引くと、それだけでニーナの紡いだ鎖は千切れ飛んだ。策が成功していたとばかり思っていたのは、誤りであったとは。
「……去ね、儚き者たちよ」
バスティアーンの一撃は、地を這う斬撃となって祭壇を破壊。
四散する剱圧と岩の礫を受け、イルリック、セシリア、ニーナは蓮華座の前から弾き飛ばされた。
その一部始終を眺めていたアルベルトは、楽しそうに口髭を揺らしていた。
「ほうほう、モルガンにマランジェには悪いことをした……実に退屈な時間を過ごさせてしまったようだ」
蓮華座を破壊されてもなお、中空に浮遊する写本に、アルベルトは歩み寄る。
「オルガ……出番だよ。この写本を、四篇の写本と統合させなさい」