間章ⅩⅩⅩⅩⅥ<浸食警告>
磨き抜かれた床を打つ、規則正しい足音が聞こえてくる。
一点の曇りも無い、最高級の黒曜石を用いた床石は、立つ者をまるで深淵の虚空にいるかのような錯覚を催させる。
直下に口を開けた奈落に堕ちれば、恐らく二度と這い上がってくることはできまい。否、元の世界に戻ってこられないという恐怖よりも、見るものは深淵に潜む何かに怯えるのだ。
それが剣呑な邪龍や、とうの昔に失われた幻獣ならばまだよかった。見るもおぞましい節足動物や、毒液を分泌する巨大昆虫や軟体生物に捕らわれ、生きながら苗床にされる恐怖は、如何に歴戦の猛者であれど足を一瞬でも竦ませることができるだろう。
古来より、闇や淵は恐怖の対象とされてきた。それはつまり、人が視覚に依存した感覚器官によって活動することによるものであろう。
そんな漆黒の回廊を歩んできているのは、黒衣の男。その相貌はまだ若く、精悍さを併せ持つ青年であった。
だが、その装束は奇妙であった。首、肩、腕、胸、腹、太腿。そのどれもに、幾重にも革のベルトを巻きつけ、さながら罪人の拘束具のような様相を呈している。
腰に吊っているのは、一振りの剱。それを隠すように、青年は外套を羽織っていた。
星無き黒淵を、青年は進む。その先には、無数の黒いケープが揺らめく奇妙な空間があった。
「ご報告申し上げます」
青年は膝を折る。
頭を垂れるその先には、両側に幾重にも黒い布が垂れ下がっていた。回廊の延長線上となるそこは、両端が正方形の緩やかな段差があった。
つまり、布が揺れている部分は、回廊よりも数十センチは高くなっている。どっしりとした布は石段の向こうを隠してはいるが、それが回廊を奥に進むにつれ、両側にいくつも設けられていた。
神都セプラツィカード、枢密院。
そこに赴いたのは、現<剱>聖印守護者、刻紫であった。
「写本はただいま、四章を融合、さらなる同胞を求め、活動が活発になることと思われます」
枢密院は悉くが無言であったが、刻紫は構わず先を続けた。
「現在、写本の所持者はシャトー・ムートン・ロートシルトの使役する魔族十二体ですが、その能力は使役魔族の常識を超えております、神都の結界が破られるのも時間の問題かと」
「その心配はない」
「お言葉ですが」
刻紫は返答に対し、さらに食い下がる。
「使役魔族の能力は、およそ邪龍討伐戦役時における四人の夢幻王にも匹敵するものと思われます……その規模が十二体で活動していると申し上げれば、現段階の状況がご理解いただけるかと」
「結界の異常は報告されておらん。神都の護りは完璧だ」
説得できないと悟ったのか、その場で立ち上がる刻紫。
「それでは、神都の護りは枢密院の方々のご決断に従いましょう……なれど、我等は写本と禍の監視が任務、有事の際にはご期待に添えぬこともあるやもしれぬこと、お忘れなく」
かつ、と踵を鳴らし、刻紫は背を向ける。
苛立ちと苦悩に拳を握り締めたまま、刻紫はその場をあとにした。