第四十五章第三節<Binded Souls>
蹲るセシリアが大人しくなるのを待って、フィオラはゆっくりと近づいて行った。
今は、どんな言葉も慰めにはならない。いや、慰めようという意志すら、今のセシリアは邪魔なものでしかない。
それでも、先に進まねばならない。残酷な運命は、悲しみに暮れる刻すら、与えてはくれない。
「……立って、セシリア」
自分の言葉がセシリアの胸にどう響くか。
それを考えれば、口が裂けても言えぬはずの言葉。しかしそれでも、誰かが言わねばならないのだ。
「先を急ぐわ、準備はいい?」
ややあって、セシリアは顔を上げた。汗と涙に濡れたその顔は、全ての希望を失った者の表情であった。
感情というものを喪失した人の顔は、見る者をぞっとさせる。
何故なら、感情を持ち続けていれば、胸の痛みに耐えられなくなるから。だから、心を守るために、人は感情に鍵をかけてしまう。そうして、時間が痛みをかき消してくれるのを、ひたすらに待つのだ。
「待て」
打撲の傷に影を巻きつかせ、筋肉と骨格を固定する応急処置を施したフェイズが鋭い声で制する。
「先に進むのはまだ早い……殺気がする、下手に動くな」
静寂が広間を支配する。
聞こえるのは、互いの微かな呼気のみ。
そのとき、頭上で物音が聞こえた。
真っ先に反応したのはフェイズ、ニーナ、そしてリルヴェラルザ。
それぞれの武器に手をかけ、戦闘態勢のまま、動向を待つ。そして。
「共倒れをするかと思ったけどよ……そこまで愚かじゃあなかったんだな」
声の方向に振り向いた瞬間、頭上のテラスから空中に飛び出す人影があった。
白い鳥のようにも見えたそれは、人影が纏っている服装ゆえか。
交錯する視線の中、ラーシェンの遺体の傍らに、それは着地した。
見れば、まだ幼さの残る顔立ちをした少年であった。頬の辺りまで伸ばされた前髪の奥から、その場に居並ぶ者たちを一瞥し、ついで足下に伏すラーシェンを見下ろす。体型に密着した革の着衣の上から幾重にもベルトを巻き、さらに白い外套を羽織った姿をしている。
その少年の出現に、唯一驚きを示しているのは、ジェルバールであった。
「……何故、ここに……!」
「ふん」
年には不釣合いな口調で鼻を鳴らし、少年はラーシェンを嘲笑するように唇を歪める。
「ラーシェンは死んだか……ふん、負け犬らしい、無様な死に様だな」
「貴様!」
背後を取る形になっているフェイズが怒号を発する。
だが少年はそれには反応せず、ただ、右脚だけを動かした。
蹴るでもなく、回すでもなく。力すら入った動きとも思えないそれ。
だが少年の脚は旋風にも匹敵する風と衝撃を巻き起こし、ラーシェンの遺体を吹き飛ばした。
四肢が、首が、不自然な角度に曲がり、背後の壁に激突する。死者を冒涜するその行為に、誰もが色めき立った、そのとき。
「やめるんだ」
非戦闘員であるはずのジェルバールが、一歩前へと進み出る。
少年が脚を振り抜いたとき、どこかで何か柔らかいものが潰れるような音がしたのだ。
「へえ」
少年は右目だけを大きく見開き、ジェルバールを見据えた。
「てめえが俺に指図するなんてな」
「……それ以上は言うな」
「ふん」
少年は舌を伸ばし、唇をゆっくりと舐る。
「よく言うぜ……俺をずっと閉じ込めて、時間牢獄に幽閉してたくせによぉ、え?」
感情の無いセシリアの瞳が、焦点を結ぶ。
少年の背後で、フェイズが初めて狼狽した表情を見せた。少年の言葉には聞き覚えがあった。確か、あれは、ジェルバールの口から聞いた話ではなかったか。
「何のために、ここに来た」
静かな睨みあいは、ジェルバールの問いによって破られた。
「決まってるじゃねえか」
大仰に手を広げてみせ、少年は微笑んだまま答える。
「俺を幽閉しやがった、王家の生き残りを殺してやろうと思ってよ」
「ならば、他の者には関係あるまい」
「ああ、いいぜ」
弱者を踏み躙る喜悦の色を浮かべ、少年は腕を組んでみせる。
広間には二つの扉があった。そこに続く道を空けるように、少年は半歩退いた。
イルリック、リルヴェラルザ、フィオラ、セシリア、そしてニーナは扉に向かって走り出す。
ただ一人、セシリアだけは、行き過ぎる刹那、ちらりとラーシェンを見やり。
そして、何かを振り切るように、扉の向こうへと消えて行った。
すっかり足音が聞こえなくなるのを確かめてから、ジェルバールは少年に言葉を投げかける。
「あれは幽閉ではない……兄さんの体のことを思って、王宮呪術師たちが採った方法だった……」
「聞きたくも無いね」
「兄さんの体は、先天的な組織不全を患っていた……あの蹴りで、どこかの筋肉が潰れた音がしたな」
「関係ねえよ」
ジェルバールの言葉を裏付けるように、少年の左脚に近いところには、赤い飛沫が散っていた。少年は自らの脚に視線を落とす。膝から下の肉が鮮血を滴らせながらだらりと垂れ下がっている。あの凄まじい蹴りは、自らの肉体をも傷つけていたのだ。
「俺はChevalierの力を手に入れたんだ、それなのに、てめえらは俺にビビって時間牢獄に閉じ込めやがった……」
少年は、ぐっと拳を前に突き出す。
「研究者や王族の大半は殺されちまった……けどよ、俺はお前を殺せれば文句はねえ」
歪んだ目的。恐らくは、L.E.G.I.O.N.による同士討ちの駒として使われたのだろう。
先天的な組織不全は、Chevalierの能力と同時に与えられた負の遺産だった。
そのせいで、フォレスティア家長男のヴォードロゥは通常の生活すらままならなかった。組織不全による肉体崩壊と、Chevalierとしての安定しない膂力は、いつ何時事故を引き起こすか分からない。
ヴォードロゥをシリンダーの中に眠らせたのは、そうした治療が目的であったのに。
「お前がジェルバール様を殺すというのなら」
少年の背後で、フェイズが声を放つ。
「S.A.I.N.T.たる私は、お前を殺そう……どちらが早いか、やってみるがいい」
「ふざけろよ……その傷で、俺の相手ができんのか?」
三人の男の視線が交錯する。
逃れられぬ戦いの呪縛に縛られた王家の血統が、まさに今、ここで散ろうとしていた。