第四十五章第二節<Cruel Confession>
「なんだぃ……ざまぁ、ないね……」
フィオラに体重を預けたまま、汗まみれの顔でニーナが微笑む。
扉を破り、中に雪崩れ込んできたのは、別行動を取っていた女性四人組のメンバーであった。
部屋の中央に出現した黒い異形の妖魔、そして倒れ伏すフェイズ、扉付近に退避しているジェルバールとセシリア。その光景を見ただけで、誰もが広間で起きていた事態を一瞬で把握。
そして同時に、その異形の戦闘能力が、フェイズ一人では対処不可能なほどに高いということまでを認識した。
「人のことを……言える格好では、ないな……?」
手をつき、何とか上体を起こしたフェイズが、口元を血に染めた壮絶な貌で微笑んだ。
「リルヴェラルザ」
傍らに立ち竦むイルリックは、震える指で白い衣の袖口を握り締める。軍人であるセシリア、権謀術数を潜り抜けてきたジェルバールとは違い、常に保護された環境で育ってきたイルリックは、妖魔の帯びる恒常的な魔力の影響を強く受けてしまっていた。精神力の低い、または耐性のない者に狂乱状態を引き起こす魔力を浴び、イルリックの顔面は土気色になってしまっている。
「あれは……あれは、なんですか」
「ラーシェンよ」
リルヴェラルザが答えるよりも早く、セシリアが一つの名を口にした。
「あれは、ラーシェンなの……L.E.G.I.O.N.の攻撃を受けて、妖魔になった……ラーシェンなのよ……」
四人は言葉を失い、そして異形を見た。
あれが、黒衣のSchwert・Meisterなのか。
見る影も無く変貌を遂げたその姿に、四人は少なからず衝撃を受けた。しかし、このまま驚愕に足を止めているわけにもいかない。イルリックの指を解き、リルヴェラルザが腰の剱の柄に触れたまま、数歩歩み寄る。
「あの」
後ろからのセシリアの呼びかけに、リルヴェラルザは足を止めた。
「ラーシェンを……助けてください」
「……努力はするわ」
答えたのは、リルヴェラルザではなく、フィオラ。傷ついたニーナを壁にもたせかけ、強い意志を帯びた瞳で妖魔を見つめる。
「でも、最悪の事態も、同じく考えておいてね?」
「フィオラ?!」
「……参ります」
高まる呪力と闘気を感じ取り、妖魔が二人に向き直る。
まず最初の目的は、フェイズが動けるようになるまでの時間を稼ぐ。そしてまず有り得ないことではあったが、隙を見て妖魔を倒す。
ぐん、と頭上に剱を振りかぶった瞬間、二人は正反対の方向へと散開していた。
外見の性質と同じく、この妖魔は圧倒的な戦闘能力とは裏腹に、機動力には乏しい。
それなら、策はある。剱を持つ腕とは反対側に身を置くフィオラはその場で結印。親指と薬指、小指で円筒を象り、両の人差し指を伸ばし、中指の先端をつける。
「奄 瑟底里 迦羅魯婆 吽 欠 娑呵ッ!」
大威徳明王の真言が空気を震撼させたと思った瞬間、頭上にきらめきが生じる。攻撃態勢に入っていたために防禦が間に合わぬと判断した妖魔は、空いた左の拳で光を迎撃せんと振り上げる。
だが直下に降り注いだのは、金色の巨大な刀剱。それは妖魔の左腕を半ばで切り落とし、威力を毛ほども減じさせずに妖魔を貫く。
両の獣が悶えのたうち、妖魔は背から腹にかけて剱で貫かれたまま、床に縫い止められていた。
身をよじり、空中より現れた剱を引き抜こうとする妖魔の周囲の床石が四散。
リルヴェラルザの意志により、直下から上方へと幾筋もの水流が檻となって突き立った。それらは決して妖魔に触れることはないが、しかし戒めるという目的を同じくした呪術攻撃であった。
金剋木。
インドラは雷撃の象徴であり、雷撃は五行思想では「木」に充当される。その力を最も減衰させる攻撃は「金」であり、西の方角に象徴される五大明王の一つ、大威徳明王の神力によって剱の戒めを放ったフィオラの呪術の威力は凄まじかった。
さらに、通常であれば妖魔の力を増すことになってしまうリルヴェラルザの水を、同じ拘束系の手段に使うことにより、金生水の関係が発生し、剱の威力は高まることになる。
見事な連携と、呪術的側面から攻撃を強化した戦術であった。二重の戒めを受け、身動きの取れない妖魔を確認すると、フィオラは手印をそのままに妖魔を見据える。
まるで視線それ自体が呪力を帯びているかのごとき気迫を込めた双眸は、ややあってから逸らされて。
「ごめんなさい、セシリア……ラーシェンを助けることは、できそうにないわ」
死刑の宣告からの衝撃は、セシリアから言葉を奪うのには充分だった。
「……フィオラ?」
「なるほどな」
腹部の痛みに耐え、ふらふらとフェイズが起き上がる。
「太刀が飲み込まれてしまってる、ということか」
「それもあるわ」
妖魔が身動ぎをするたびに、ぎしぎしと深遠の鎧が軋む。
「けれど、これは……普通の妖魔化ではないのよ……」
通常の妖魔化とは、体内に非物質としての怨念の核となるものが生まれ、慢性的に怨念の蓄積量が高まる際にのみ発生する。そして、戦闘、大量死、呪詛などにより、一時的に体内許容量以上の怨念が核に導かれて蓄積されたとき、爆発的に膨れ上がる負の奔流によって、魂魄呪式が書き換えられるために起きる霊的現象であった。
その場合、本体と妖魔の魂魄は分離状態にあり、妖魔を行動不能にすることによって、宿主に強制的に支配権を譲渡させて救出することができる。
しかし、今回は違った。融合の核となるものが体内ではなく、精神内にあるため、ラーシェンと妖魔の分離が著しく困難な状態にあった。
ラーシェンが怨念を引き寄せたのは、記憶であった。
妻と娘の記憶。
あのとき、上空に座天使の聖歌隊を見たラーシェンは、それまでの放浪生活で蓄積した怨念が体内に残留していた。
天使とは、唯一神の意志を成す絶対善の存在。そんなものにしてみれば、平均値を大きく上回る怨念の存在は看破できるものではなかった。
桁外れの聖なる力に呼応し、ラーシェンの怨念核が暴れまわる。自己増殖をはじめる怨念は、当然座天使たちの監視の目に留まることになる。
王家を逃亡したラーシェンを市井から見つけ出し、太刀を盗んだことへの罰を死によって与えるというのが、王族への処断であった。市街区画一つを飲み込むほどに巨大な妖魔と化したラーシェンは、座天使の聖歌によって自由を奪われ、そして全能神の意志を代弁する天使の総攻撃をその身に受けたのであった。
ラーシェンが最初に妖魔となったのは、娘が座天使の姿を認めた直後。
すなわち、妻と娘を護りたいという一心が、皮肉にも二人を怨念の渦の中に取り込んでしまう結果となったのだ。
Schwert・Meisterとして鍛え上げられた心身であったからこそ耐え切ることができた渦は、妻と娘の命を容易に奪い去った。ラーシェンの記憶にあった、射手座宙域の聖歌隊の映像は、妖魔の鎧を奪われたあとの、無防備な状態に戻ってからのものであった。
唸りを上げ、妖魔が剱を振り回す。床に孔を穿ち、柄で身を貫く刀剱を殴りつける。
幾度も打ち付けられている大威徳明王の剱には、既に無数の亀裂が走っていた。
フィオラの呪術も、長くはもたない。
広間の入り口で、それまで座り込んでいたニーナが力無く立ち上がった。
フィオラもリルヴェラルザも、妖魔の拘束に集中しなくてはいけない。止めを刺すのは、自分しかいない。
「セシリア」
胸の痛みに顔をしかめ、ニーナはセシリアの震える肩に手を置いた。
「覚悟を決める、時間をやれないのは……本当に、悪いと思っ、てるさ」
ぜいぜいと荒い息の合間に、言葉を紡ぐ。
「それでも……」
ニーナの手が、肩から離れる。
それは紛れも無く、ラーシェンを殺しに行くために。
「最後まで……見守ってやんな」
義手となった腕を前に突き出し、ニーナは高速詠唱に入る。拘束しているのが西方の呪力ならば、それに従うまで。
「大いなる四辺形の名と文字において、我汝らを召喚す、西の塔の守護者たちよ!」
「……ラーシェンッ!」
ニーナの詠唱に重なるようにして、セシリアの叫びが上がる。
詠唱が終われば、ラーシェンは死ぬ。妖魔となった今、その恐ろしさを熟知している彼等が手加減をするとは思えない。それは逃れられない運命として、彼の上に振り下ろされる剱なのだ。
ニーナの義手が淡い光を放ち、光輪を生む。それは身動きの取れないラーシェンの頭上に放たれ、そして光を増す。
「いざや来たれ、西方の天使よ、狂乱の神を断罪せよ!」
死が下されるまでの時間に、自分は何が出来るのか。思い出は深く、多く、そして全てを蘇えらせるには時間がない。
否、そのようなことはいつでもできる。
何か。自分には、今でしか出来ぬことがあったのではないか。伝えるべき言葉を、カルヴィスの死によって得た救命ポッドの中に忘れてきたのではないか。
「ラーシェン、聞いて!」
身を乗り出し、喉も裂けよと言わんばかりの絶叫を放つ。
光の輪は、徐々にその正体を現していた。それは光り輝く、無数の剱。諸悪を断つために聖霊が打ち振るう、浄化の剱。
「私は、あなたを……ずっと、愛していたの……!」
それは、幼き日に抱く、淡い恋への慕情などではなかった。年を経るごとに強まる想いは、セシリアの中で確信へと変わっていた。
私は、ラーシェンを愛している。同じフォレスティアの姓を名乗る者同士、決して叶わぬ恋であったにもかかわらず、私はあの人を愛した。
「あなたが、王家を飛び出した日から……いいえ、それよりもずっと前から、あなたを想わない夜なんてなかった!」
きん、と澄んだ音色が響く。光の剱が、切っ先をラーシェンに固定し、静止したのだ。
時間が無い。
「お願い、聞いて、ラーシェン、お願いだから、私の声を聞いて!」
激しい嗚咽と悲鳴だけが、響き渡る。
そして、時は満ちた。
負荷に耐え切れず、明王の剱が砕け散ったと同時に、光の剱はラーシェンの全身に突き立てられた。巨躯に比べれば針のように小さいそれらであったが、切っ先は確実に霊的急所を貫いていた。
がくがくと痙攣する妖魔。
それを縋るような、涙に濡れた顔で見守るセシリア。
動きを止めた妖魔は、やがてぐらりと巨躯を傾がせる。ずるり、と全身を覆っていた怨念が剥離する。まるで霧のように、それらは空中に溶けていく。
その中心から現れたのは、絶命したラーシェンだった。
太刀<雷仙>を握り締めたまま、瞳を閉じて動かぬラーシェンは、ゆっくりと落下していく。異形の獣もまた怨念と共に輪郭を失い、蒸発するように霧消していく。その中で、まるで眠っているように、ラーシェンは床に倒れた。
一度床に背を打ちつけ、そしてふわりと浮き上がり。
かすかに跳ね上がった躰は、しかし二度と、起き上がることは無かった。
気がつけば、声を限りに叫んでいた。
ただ、叫んでいた。もし声を止めれば、恐らく気が狂っていただろう。それほどに暴れ狂う激情に耐えるには、今は叫ぶしかなかった。膝をつき、躰を折り、ただ叫び続け。
やがてセシリアの喉は渇き、疲れ、傷つき、声が出なくなる。それでもなお叫ぼうとする唇は、虚しく動く。
声無き慟哭を上げるセシリアは、やがて冷たい床石に額を当て、泣いた。
そして、セシリアを除く誰もが、ラーシェンの右腕が上がるのを見た。
生き返ったのではない。
持ち主の死を感じ取った太刀が、その世界を離れていくのだ。
ふわりと空中に浮き上がった太刀<雷仙>。狂っていると知ってもなお、ラーシェンを主と認め続けた太刀。
柄から指が離れた瞬間、太刀は跡形も無く消失した。
ラーシェンの右腕が落ちる。
そのとき、広間のテラスに続く扉が、ゆっくりと開かれたことに、誰も気づかなかった。