第四十五章第一節<Shadow Master>
雷霆神。
仏教では帝釈天とされ、非常に著名な神格の一つである。雷鳴を司る軍神で、聖典には賛歌が数多く綴られるほどに、かつては信望を集めていた古代神である。ナーガ神族のヴリトラ討伐のエピソードはあまりにも有名であり、黄金の戦車に乗って戦う姿はまさに英雄神そのものであった。
古代アーリア種族が持ち込んだとされるその神は、理想の戦士である反面、その英雄然とした性格の裏には、暴虐の覇王たる側面をも併せ持っていた。暁の女神ウシャス、そして太陽神スーリヤに働いた暴君ぶりは、だが民衆の反感を買うことはなく、人間味溢れる神として、信仰を深めることに役立っていた。
しかし、眼前にいる妖魔からは、そのような栄光は何一つ感じられない。
怨念という負の要素の集積体であるためなのか、一切の光明を吸収し尽す暗黒の鎧に覆われ、堕落した欲望の象徴たる悪獣は腐臭にも似た呼気を放っている。
神話では雷具ヴァジュラを使用したとされているが、妖魔が手にしているのは刀身が数メートルにも及ぶ巨大な刀剱であった。
足の代わりとなった獣がぐるりと旋回し、こちらを向く。対峙するフェイズは、片手でジェルバールとセシリアを制した。
いつしか、ラーシェンを妖魔に追い込んだL.E.G.I.O.N.たちは姿を消している。
今のラーシェンは、強烈な浸食と強制妖魔化による精神負担のために、錯乱状態に陥っている。恐らく、見るもの全てに攻撃を仕掛けるだろう。戦闘に関しては素人のジェルバールとセシリアが巻き込まれれば、恐らく命はない。妖魔となったラーシェンも、兄や義妹を手にかけたということすらわからぬだろう。
黒き狂乱の剱士は、一度天を振り仰ぐと冥府の鐘のような怒号を上げた。
びりびりと震動が頬を振るわせる。
入り口付近にまで二人が退避したことを確認すると、フェイズは腰の剱を抜き放つ。正面に構え、そして広間のあちこちに点在する影の塊に意識を放ち、それらへの支配を試みる。鴉のような双眸の兜がこちらを向き、フェイズを捉える。
妖魔の腕が上がった、と見えたのは刹那。次の瞬間にフェイズの全身を、意識を喪失するほどの殺気が包む。その悪寒は判断を鈍らせ、筋肉と神経の反射速度を遅らせる。
「……ちぃ!」
それでもなんとか側方に回転しつつ回避したフェイズの傍らを、殺気の塊が擦過していく。
剱の間合いには入っていないと考えていたのが甘かったようだ。ぞっとする気配が通り過ぎたのち、フェイズは身を起こしながら振り返り、そして愕然とした。
分厚い壁に、くっきりと刀傷が残っていたのだ。
亀裂などではない、恐ろしいほどの直線。恐らく、傷の縁は触れれば切れそうなほどに鋭く、文字通り石壁を斬り裂くほどの威力を持つ攻撃であった。
そして、フェイズは思い出した。
ラーシェンは、Schwert・Meisterであったではないか。
見ればその剱の形状は、太刀のそれと非常に酷似している。巨大化にあわせ、太刀すらも怨念に取り込まれ肥大化したというのだろうか。
否、太刀は通常の武器とは大きく異なる点がある。それは、太刀自体が自我意識を持っているという点にある。これまで様々な研究が行われてきたが、現在の呪術技術、科学技術では擬似的に意識に似た反応を無機物から返させることはできても、完璧な意識を付与することはできなかった。
それはすなわち、意識というものを現行のテクノロジーでは解析できなかったためなのだが。そのため、ラーシェンが妖魔化したとしても、太刀までが取り込まれることはないはずなのだ。使用者の精神と、太刀の精神は、熟練者では交流をすることはあれど、分離しているのが普通である。
なのに、どうして太刀は融合を振りほどかない。さらに言うならば、どうして狂乱状態にあるラーシェンの意のままに、攻撃を放つのだ。
だが今は、それ以上考えている暇はない。
剱士はこちらを向いてはいないが、脚部の獣がフェイズに向かって唸り声を上げている。
剱士の頭部とあわせ、両足の獣を入れれば知覚器官は三つ。こちらの所在をくらまし、隙を作る戦術は効率がいいとは言えないようだ。
手を突き出し、周囲の闇から槍を生成。同時に右手の剱の周囲に闇を纏わせ、その形状を巨大化させていく。
寸毫の隙をついて、獣の直下から槍が鋭い切っ先を突き上げてくる。直感だけで躱す獣の肩口に槍が突き刺さり、獣の双眸が苦悶に瞬く。
動きが止まるその瞬間を見計らい、フェイズは跳躍する。
手負いとなった獣に突進し、前肢の間合いの数歩手前で跳ぶ。最初の足場は獣の肩。次いでさらに高く跳躍し、剱士の間合いの内側へともぐりこむ。
巨大な武器の欠点として、有効範囲よりもさらに奥へと飛び込まれた相手に対しての対策は非常に限られている。
こちらの目的は、相手の撃破ではない。妖魔化したラーシェンを、なんとか怨念の鎧から引き剥がさなければ。そう感じたフェイズは、妖魔の右腕に狙いをつけ、闇を纏った剱を一閃。
闇色の刃と深遠の鎧が激突する。
強化されたフェイズの刃は、しかしラーシェンの右腕を斬り裂くことはできなかった。
逆方向から、容赦のない拳打がフェイズの腹を襲ったのだ。咄嗟の防禦すらも間に合わない、恐るべき速さの拳は、軽々とフェイズの躰を吹き飛ばした。そのまま受身すら取れず、広間の奥の壁に激突し、ずるりと床に伏せる。
「……く」
肋骨が折れたことは、痛覚で分かる。
焦点が定まらぬほどの痛みに耐え、身を起こすフェイズ。さらなる追撃を仕掛けてくるかと思われた妖魔は、しかしぐるりと頭を逆方向へと巡らせた。
まずい。その位置には、無防備なジェルバールとセシリアがいる。
今のままでは、自分は二人を守ることはおろか戦うことさえもままならぬ。
甲高い音を立てて鳴る喉を叱咤し、歯を食い縛って立ち上がろうとするフェイズ。喉元に熱い塊が競りあがり、そして唇で弾けたと思った瞬間、床石に血の塊が広がる。
ぎり、と奥歯が折れるかと思うほどに噛み締めた、その瞬間。
広間の大扉が大きく開かれた音がした。
「そこまでだよ」
聞き覚えのある声。
霞むフェイズの視界の中には、別行動を取っているはずのイルリック、リルヴェラルザ、そしてフィオラに担がれたままの手負いのニーナの姿があった。