第四十四章第二節<Master of Sword>
その瞬間、ラーシェンは何が起きたのか、理解できなかった。
唐突に視界が奪われ、紅に染まる。凄まじい衝撃が顔面を襲い、遅れること刹那、顔面が麻痺するほどの激痛が脳髄を包み込んだ。悲鳴を上げられるのは、まだ余裕があるのだということを、ラーシェンは身を以って理解することになる。
無音の叫びが唇の奥から放たれる。叫ぼうにも、声帯が麻痺してしまったのか、ひゅうひゅうという掠れた声しか出てこない。目を開けることすら出来ず、痛みの中核となる部分に手をやると、指先が何かに触れた。
それと同時に、頭蓋を抉られるような激痛の波が顔面にぶちまけられる。
ややあって、L.E.G.I.O.N.によって投じられた短剱が左眼を貫いたのだ、ということが理解できた。
傷口に当てた指が、掌が、ぬめりのある液体によって汚れていく。ぼたぼたと滴る鮮血が指の間を伝い、腕を濡らす。それでも懸命に残る右目を開けると、連動して左の眼球が動いたせいか、激痛がさらに強くなる。
痛みに耐え、ラーシェンは面を上げる。
修羅のような形相が、L.E.G.I.O.N.に向けられた。
殺してやる。
渦を巻き、躰の内側で膨れ上がる殺気を言葉に変換しようとしたラーシェンは、焼けつくような怒りを胃の底に感じながら、途端に呼吸が出来なくなるのを感じた。感情の制御が出来なくなると同時に、肉体すらもラーシェンの意志を離れてしまう。乖離し、何とも結びつかなくなった精神は、ただ狂ったように暴走を続ける。
「まずい」
緊張に張り詰めた声で、蹲るラーシェンを見下ろすジェルバールは呟く。
「よりによって、こんなときに……ッ!」
バルドヴィーノの攻撃によって蓄積した念による、放浪病の発作か。しかも、ここには浄化を行えるだけの呪力を持つ者はいない。放浪病の発作時に適切な治療ができないということは、そのまま死を意味する。
呼吸が出来ず、蹲ったまま床石に爪を立てるラーシェン。
「甘いよ」
マランジェはラーシェンを見下ろし、そして微笑む。
「その短剱は怨念の塊さ……どうなるか、わかるかい?」
ラーシェンの指の間で、ずるりと短剱が崩れた。
それは形状を失い、どろりとしたタール状の液体となる。隙間から零れ落ちることなく、それは生き物のように這い上がり、ラーシェンの傷口から体内へと入り込む。激烈な反応が生じ、脳が爆発するかと思われるほどの衝撃に、ラーシェンの躰が弾かれたように仰け反った。
「何をしたのッ!」
「聞かなくても分かるだろう?」
涙を散らしながら絶叫するセシリアに対しても、マランジェは微笑を崩さない。圧倒的な有利を楽しむかのように、感情に衝き動かされる者を嘲笑う。
「ここで問題です。放浪病の発作を臨界点を超えて、体内に強い怨念が蓄積されれば……さて、どうなるでしょう?」
色めき立つフェイズはラーシェンに振り返り、そして愕然となった。
四肢を踏ん張るようにして痙攣を繰り返すラーシェンの全身を、紫色の雷光が幾度も走り抜けているのが見える。
まさか。
放浪病を患った者は、生涯に渡り完全な除去は不可能とされた怨念の核を有したまま生きることになる。核は怨念を引き寄せる際の中心点となり、故に一度病を発症した者はその後も定期的な祓が必要になる。
だが不運にも核の周囲に肉体の耐性以上の怨念が集積した場合、核を持った怨念は生体活動を著しく阻害することがある。呼吸困難、神経麻痺、筋肉硬化、思考停止などの症例は総じて、一般的には発作と呼ばれる。
しかしそれでもなお蓄積が止まらなかった場合はどうなるか。
傷口から堰を切ったように黒い粘液が溢れ、ラーシェンの顔面を覆い尽くしていく。ものの数秒で頭部を完全に封印した粘液は留まることを知らず、首、胸、腕、腹と浸食を開始。
「ラーシェン!」
「駄目だ、近寄るんじゃない!」
狂乱状態になるセシリアをジェルバールが制する。腕の中でもがくセシリアは、それでも一ミリでもラーシェンに近づこうと懸命に手を伸ばす。
今なら、まだ間に合うかもしれない。そんな薄っぺらい願望にさえも縋りたいと望むセシリアが悲鳴を上げる。
「思い出せ、射手座宙域の聖歌隊を」
韻律を持つ詩を朗読するかのように、マランジェはゆっくりと翼を羽ばたかせながら呟いた。
「L.E.G.I.O.N.の地下組織があるのだとしたら、艦隊での制圧で充分だったはずだ……それをわざわざ、基督教圏の座天使を召喚した意味を、考えたことはあるかい?」
びくん。
ジェルバールの腕の中で、セシリアが動きを止めた。
「そんな、嘘よ……」
「嘘かどうか、その目で確かめればいい」
腕を組んだままのマランジェは含み笑いを浮かべつつ、眼下を睥睨する。
「聖歌隊が本当に滅ぼしたかったのは、一体なんなのか……ねえ、ラーシェン・ロウトファリア・アイニーク・フォレスティア?」
急速に粘液に飲み込まれていく中で、ラーシェンの意識が覚醒した。
脳裏に刻み込まれた、妻と娘の死の光景。娘は腕の中で事切れていた。離すまいと握っていた妻の手は、肘から先がなかった。
あのとき。あの地獄で、俺は。
音無き慟哭がホールを震撼させる。
浸食は止まっていた。黒衣のSchwert・Meisterの姿は、最早どこにもなかった。
獣の唸り声と共に、まだ形の定まっていない前肢が踏み出され、床石にべちゃりと拡がる。胴を同じくし、肩口から双頭に分かれた異形の獅子。その背中と同化するように、腹から上に聳える剱士。長く鋭い鉤爪を持ち、肘の反対側には長く鋭利な刺突の武器が生じていた。右手に当たる部分には指は無く、代わりに数メートルにも及ぶ巨大な刀剱が肘から先に出現していた。
鴉のような双眸の兜で頭部を覆い、紅蓮の瞳で三人を見下ろす異形。それは、かつてラーシェンであったもの。
左腕にかろうじて固定されていた、メイフィルの作製したVAの画面が揺らぐ。
<分析終了 妖魔タイプ確認 Hinduism系列 種族名称 雷霆神>
神話における、雷撃と暴風の守護神。
圧倒的な怨念を受け、妖魔となったラーシェンの足下で、VAは落下し、火花を散らして沈黙した。