第四十四章第一節<Lost Dress>
呼気が乱れた。
そう感じた瞬間、ニーナは肩にずしりと重圧が掛かって来るのを感じた。慎重に足を運んでいたつもりだったが、それでも気遣いは完璧にはできない。龍牙炎帝の躰がバランスを崩し、その体重が支えていた肩にずしりと預けられたのだ。
「……済まないね」
「いいって……大丈夫だ……」
息を乱した龍牙炎帝は、気丈にもニーナの言葉を押し遣るが、それでも彼女の傷が浅くはないことを、項で珠を結ぶ汗が物語っている。
恐らく、一歩ごとに胃の腑を抉るような鈍痛が身を苛んでいることだろう。
ニーナは微笑んでみせ、そして先を行く三人に視線を移す。やや離れた場所から、イルリック、リルヴェラルザ、フィオラがこちらを振り返っている。その表情には、どれからも二人への配慮が感じられた。
「少し休むか」
「……いや、いいんだ」
リルヴェラルザからの提案に、龍牙炎帝は首を横に振った。先を急いでいるのは、龍牙炎帝自身にも理解できることであった。それを、自分のせいで遅らせてしまうということだけは、何としても避けたかったのだ。
しかし、どんなに強がっていても、身に刻まれた傷は癒えることはない。懸命に取り繕おうとすればするほど、呼吸は乱れ、汗は噴出し、言葉はかすれる。苦痛に堪える龍牙炎帝の頬を慰撫するかのように、ふわりと白い光が揺れたように見えたのは、そのときであった。
顔を上げると、直ぐ目の前にリルヴェラルザが立っていた。
「優れた戦士というものは、己の傷を正確に知ることができると聞く」
仮面の下で微笑む唇だけを見せ、リルヴェラルザは龍牙炎帝を優しく諌める。
「少し休め。お前の安息と引き換えに失うものがあるとすれば、それは最初から手に入らぬものと考えよう」
返事の代わりに龍牙炎帝の喉から漏れたのは、弱々しく呼気がなる甲高い音だけであった。
リルヴェラルザは改めて周囲を見回してみる。現在位置は、天井が見えぬほどに高い回廊の中ほどであった。左右に立ちはだかる黒い壁は分厚く、堅牢で、かつ様々な彫刻が浮き彫りにされた装飾を施されている。薄暗い廊下の左右から、薄物を纏った美女がさらなる奥へと誘うように手を差し伸べている。
その回廊の遥か先には、闇に溶けこむ寸前の距離に、一つの巨大な両開きの扉があった。そこまでの距離はおよそ百数十メートル。辿り着けぬ距離ではないが、その間において、L.E.G.I.O.N.の襲撃を受ければ、まず間違いなく無傷では凌げまい。
見通しが悪いというのが気がかりであったが、ここでしばしの休養を取る以外の策はないと思われた。
「フィオラ、結界を頼む」
リルヴェラルザはその言葉と共に、やや離れた場所の壁にもたれかかり、いつでも抜刀が出来る態勢のまま息を吐く。
フィオラの結界とリルヴェラルザの守護により、壁を破って襲撃でもしてこない限り、こちらが奇襲を受けることはまず考えられなかった。
即席の休憩場所となったその回廊で、ニーナはゆっくりと身を屈めて龍牙炎帝を床に降ろす。
傷に障らぬよう、細心の注意を払って優しく安置する。ニーナの着衣を握る龍牙炎帝の指の力がぐっと強くなり。
そして、ニーナの背中から紅に濡れた切っ先が顔を覗かせた。
何が起きたのかわからぬのは、無論ニーナも同じであったろう。
一瞬の遅滞をおき、苦悶の呼気を吐く唇からは鮮血が散る。腕の中でいるであろう龍牙炎帝を見下ろしたニーナは、その瞬間愕然となった。
彼女の大きな外見的特徴の赤毛は何処にもなく、代わりに視界に飛び込んできたのは癖のある黒髪。誰何の声を発するよりも先に、刀身をさらに埋め込まれ、ニーナはくぐもった声を漏らす。
「ニーナ!?」
騒然となる三人の視線の先で、ずるりとニーナの下から出現したのは、長身の女性。その手には細身剱が握られ、今しがたまでニーナの胸を貫いていたことを示すかのように、紅の雫を結んでいる。
「……貴様」
至近距離に現れた、見たこともない女性の姿に、リルヴェラルザは咄嗟に戦闘態勢に入る。
「気遣ってくれてありがとう……だけど私はもう、大丈夫よ?」
「ふざけるなッ!!」
納刀したままの態勢で、闘気だけを女に放つリルヴェラルザ。ひとたび抜けば流水の如き緩急の攻撃を放つと言われている魔剱を容易に抜くわけにもいかず、気迫だけで相手を圧する。
「あらあら」
とん、と床を軽く蹴る女性。たったそれだけの動きであるのに、女性の躰はまるで羽毛のように頭上高く舞い上がった。
「私の名は、モルガン・シーモア……L.E.G.I.O.N.の一人」
重力を全く感じさせない動きのまま、モルガンは四人から離れた地点へと着地する。追撃を決意するリルヴェラルザであったが、視界の隅でニーナが崩れ落ちるのを見、逡巡に動きを鈍らせる。
駆け寄ったフィオラが傷を判断。深いが、急所は僅かに外れていた。
「お仲間がどうなったか……知りたい?」
「何だと……!?」
色めき立つリルヴェラルザ。それとは対照的に、微笑を絶やさぬままに艶やかに舞うモルガンは、およそ人では有り得ない軽やかな動きで回廊を進む。
「リルヴェラルザ、深追いは」
「逃がすかッ!!」
己の索敵能力の裏をかかれたリルヴェラルザは、完全に頭に血が上っていた。
身を折り、喉元に競りあがってきた血塊を吐くニーナ。全身に機呪ネットワークを張り巡らせ、義手に内蔵した高速詠唱演算式のコンピュータを搭載するも、臓器を破壊された傷を癒すことはできぬ。
イルリックの制止すら聞かず、闇の中に消えんとするモルガンを追って疾走する。
「私の役目はお前たちの足並みを乱すこと……けれど知りたいなら見せてあげる」
高度にして約五メートルの高みから着地するモルガンは、足音一つ立てなかった。
「それでは、そろそろごきげんよう」
次の言葉への怒号はなかった。代わりに、リルヴェラルザの水剱が生み出した超水圧を宿した水の槍が扉へと幾条も突き立つことになった。
耐久度を上回る負荷に砕ける扉。
その先に続く広間が姿を現した瞬間、誰もが息を呑んだ。
床に滴る紅が、ひどくゆっくりと落ちるのが見えた。
その先、頭上数メートルの正面の壁に、その源があった。
赤毛をしたSchwert・Meisterが、磔になっていたのだ。腕を横に大きく広げ、脚は甲を重ねるようにして一本に纏められ。掌、二の腕、肩、太腿、足の甲を鉄杭で穿たれ、そして左胸には血染の刀が突き立てられている。
ぐったりと俯くその姿からは、誰も生気を感じ取ることはできなかった。そしてそれは、今しがたまで同行していた、本当の龍牙炎帝の変わり果てた姿だった。
親指で露を結んだ鮮血が、今一度滴る。
完全にモルガンの幻術にはまっていた自分たちの不甲斐なさに、誰もが無言の怒りをもてあましていた。
まさか、こんな結末になるなんて。
しかし驚くべきは、龍牙炎帝ほどの使い手を倒せるだけの者が相手にはいるということだ。
混迷と狂乱、激昂と悲哀が渦を巻く中。
唐突に、すぐ近くから爆砕の轟音が響き渡った。