第四十三章第三節<Machinery Dragon>
砂嵐にかき消されそうになりながら、紅の涙を流すマティルデが呟く。壊れた動画再生機のように。魍魎に取り憑かれた機械人形のように。
「あなタトノ」
「約ソク」
「なたとのやクソクドオり」
「もどッテ」
最早眼前に迫っているのは、見慣れた旗艦ではなかった。眼のない有翼龍となったそれは、滑らかな尾をくねらせ、黒い皮膜を張った翼を羽ばたかせている。
奇怪な龍は、全部で十六体。それ以外の艦船は、変生の時点で何かが機能しなかったのか、機械と生体が中途半端に融合した異形のまま、浮力を失って墜落していった。
八尺瓊勾玉艦隊に何が起きたのか、クレーメンスは皆目見当がつかなかった。
少なくとも、無機物から有機体を生み出す呪法など存在しえぬはずであった。否、そのような呪法が存在する時点で、戦争の様式は大きく変化していることになるはずだ。
何故なら、物質に依存する戦争では、物資や兵器を充実させ、戦闘技術の熟練を支援し人材を育成することが重要になる。しかし、生物を無機物から創造することができるとしたら。しかもそれが人間一人レベルではなく、艦船規模の攻撃用生物だとしたら。
航行不能の艦船や旧式のもの、さらには戦闘を終えて修理することも不可能なほどの艦船であっても生物へと変化させ、戦うことが出来るとしたら、戦闘はさらに過激なものへとなるであろう。
何故なら、相手の戦力削減を狙うならば、徹底した物資破壊を行わなければならないからだ。攻撃はさらに熾烈なものとなり、それに呼応して防禦系技術、結界や障壁といった守護呪術の向上が起きることは必至。
また、壊滅寸前まで被害を受けた艦船に呪術を付与し、その場で生体変生させ、最後の攻撃を繰り出すと言った戦術さえも考えられる。もしそのようなものが実戦に投入されたのだとしたら、恐らく倫理観までもが揺らぐほどの衝撃を与えるだろう。
故に、眼前で展開されたその光景は、異界の空の下でこそ見ることが出来る悪夢であった。
「……マティルデ」
外装の異形とは裏腹に、画面の中ではまだマティルデが微笑んでいた。
だが、あれだけの変貌を遂げた戦艦の中がどうなっているのか、想像するだに恐ろしい。
血の涙を流したままのマティルデは、歪んだ声で同じ言葉を繰り返す。画面の向こうのマティルデが、最早自分の知る人間ではない、という冷酷な現実は頭のどこかでは理解できていた。
しかし、では一体何者なのかと問われれば、答えることはできぬ。
「クレーメンス」
微笑のまま呟いた唇が次の瞬間、痙攣した。
びくん、とマティルデの躰が揺れる。何処からか射出された肉色の槍がマティルデの首筋に突き立てられたのだ。
白く細い首を襲った衝撃に、不自然な角度に頚椎が折れる。破られた皮膚から噴出した鮮血が軍服を濡らす。それだけの致命傷にもかかわらず、マティルデは。
「約束ドオり、戻ッテキたワヨ?」
ちりちりと細かい光が、マティルデの躰の周囲で舞っていた。
「呪的戦略艦<鳩摩羅天>に連絡……呪殺属性の遠隔攻撃、標的は元<饌速日神>」
はっとなる操縦士に背を向けたまま、クレーメンスは続ける。
「標的中枢に魔力の楔は打ち込んだ……誘導時はそれを狙え」
操縦士はさらに数秒の逡巡を見せたが、やがて意を決して回線を開いて遠距離通信を行う。
「……てめえが何者かは知らねえ」
ぐっと拳を握り締めながら、クレーメンスは画面の中のマティルデを凝視する。
本当なら、すぐにでも目を背けたい光景なのだが。それでも、今は視線を逸らすことは出来ない。
「でもよ、俺はてめえを許さねえ」
血に染まるマティルデに重なるように、追憶の中のマティルデが脳裏に浮かぶ。
何気ない日常の記憶。それは、何の変哲もない、何処にでもあるありふれた記憶だからこそ、忌まわしき光景の傷跡を浮き彫りにさせたのかもしれない。
キッチンでフライパンと格闘するマティルデ。夜遅くまで昇格試験の筆記問題集に噛り付くマティルデ。休みの日、いつもは決して見せないくつろいだ格好のマティルデ。
それらはもう、見ることはかなわない。しかし、それはクレーメンスの中では一度は決着のついた諦念であった。それが今、こうして再び揺らいでいるという事実に、彼は何より憤慨していた。
「マティルデを冒涜したてめえは、俺が殺してやる」
「調伏真言、展開します」
操縦士の言葉から遅れること数秒、クレーメンスの頭部に信じ難いほどの激痛が襲い掛かった。
生きたまま頭蓋骨を切開させられ、中を真っ赤に焼けた鉄串と、液体窒素で冷却させた鉄串で掻き回されているような激痛。脳には神経がないと聞くが、この激痛はそんなことが虚偽の報告なのではないかと疑わせるほどに激烈であった。
耐え切れず、毛細血管のいくつかが破裂し、眼窩から幾筋かの鮮血が溢れる。神経が焼き切れる感触を感じながら、しかしクレーメンスは笑っていた。
発狂したのではない。唐突に襲ったこの激痛こそが、マティルデを冒涜する相手への致死の呪言が必中したことの何よりの証明であったからだ。
Faculteur能力者としてのクレーメンスが放った微細な呪力は、モニターを通してマティルデの周囲に打ち込まれた。
それを目標として、決定打となる呪殺の力を持つ呪術が放たれたのだ。しかもそれは、膨大な質量を持つ艦隊を撃滅させるほどの呪力を生み出す、呪的戦略艦の回路を通して増幅された力なのだ。人間の感覚という、曖昧ではあるが機械以上の精度を誇るセンサーと、そして強大な呪力ジェネレーターの複合呪術。楔となった呪力をしたたかに呪殺の強い力が打ち据え、その余波がクレーメンスにフィードバックしてきたのだ。
奥歯が折れ砕けるかと思えるほどに食い縛り、その負荷に耐える。
二段仕掛けの呪力を浴び、苦悶に身を捩る有翼龍。ぼたぼたと床に滴る鮮血を拭おうともせず、クレーメンスは最早受信信号を失い砂嵐となったモニターからメインディスプレイに映った残りの龍へと視線を向ける。
「全艦出撃用意!」
「クレーメンス様!?」
まだだ。まだ痛覚が生きているということは、主要な神経は繋がっている。神経がまだ機能するということは、まだ俺は戦える。
「無茶です、お一人で呪的戦略艦の呪力を受けるなんて……」
「うるせえ」
低く唸るような声を絞り出し、クレーメンスは失墜していくマティルデ艦だった龍を静かに睥睨する。
「俺は軍人だ……軍人なら、死ぬまで戦ってこそが本望だろぅが」
光芒が宙を駆け、次々と龍の隊列へと突き刺さっていく。
だがあちら側もただ黙って撃墜されていくだけではない。開かれた口腔からは鈍く脈打つ深赤の光が漏れ、そして弾幕が薄かった龍からは反撃の獄炎が放射される。
僅かに残った大気中の酸素を燃やし、熱発生率を向上させた高温の息吹は、艦の外装を溶解させるだけの威力はあった。
「……そこか」
ゆらりと頭を巡らせた血染めのクレーメンスが、操縦士の椅子に手をつきながらディスプレイに身を乗り出す。
力の入らぬ四肢を叱咤し、ただ瞳にだけ鬼気迫るほどの執念を宿し。
まるで生ける死者のように口元を歪め、凝視するその様は、まさに修羅。凄まじい苦痛と引き換えの、捨て身の策であることは充分に承知していた。それでもなお、攻撃の手を緩めぬクレーメンス。
どれだけ戦っていたのかはわからぬ。
既に当初感じていたほどの痛覚は失われているのは、痛みに神経が麻痺してきたのか、それとももう躰が限界なのか。
瞬きすらせずに見つめるディスプレイの先で、十二体目の龍が全身を光の槍に貫かれて堕ちていく。
あと少しだ。そう己を激励し、なんとか倒れそうになる躰を支えたときであった。
「クレーメンス様、ご注意を……七時の方角に機影確認! 識別信号、<Taureau d'or>第四艦隊バルダザール隊です!!」
蘇えりし死者か。
よかろう。共に踊りたいというのなら、手を取ってやる。だが、俺は貴様等を確実に葬り続けてやる。この命が尽きるまで、俺は手加減するつもりはない。
「急速反転、攻撃準備! 次は老将の艦隊か……!!」
羅刹の如き笑みを浮かべ、クレーメンスは呟いた。