第四十三章第二節<Heretic sorcely>
「八尺瓊勾玉師団艦隊より入電! 通信者、マティルデ・ミーゼズ師団長!!」
その報告にもっとも驚いたのは、クレーメンス自身であった。
識別信号でも確認された八尺瓊勾玉師団が幻影ではないことが、少しずつ分かって来ているではないか。それともこの通信すらも、こちらを欺くための幻術の一つだとでも言うのか。
一つ一つの事象が、マティルデの生還を裏付ける証拠となりえている。震える指を伸ばし、クレーメンスは通信の受信を許可しようとする。
だが、胸の奥では、小さいがひっきりなしに警鐘が鳴り続けている。
認められないのか。認めたくないのか。
しかし実際に、目の前にはマティルデの艦隊がいる。そして、眼前にいる姉を黙殺できるほどに、クレーメンスの精神は回復してはいなかった。
受信許可を出すや否や、ディスプレイに映像が映し出された。
美しい銀の髪、艶やかな瞳。少し肉厚の唇と、やや血の気のない頬。そのどれもが、クレーメンスのよく知るマティルデであった。
「久しぶりね」
画像の中のマティルデは、そう呟いて微笑んだ。
理性が揺らぐ。本当は、死んでなどいなかったのではないか。あの悲痛な痛みと予感は、激戦に疲弊した心が感じた幻ではなかったか。
そんな都合のいい、希望的観測が頭をもたげてくる。そう、今ならどんな愚かしい妄想も信じられる。
何故なら、目の前に、マティルデがこうしているのだから。
「……ああ」
それなのに、口から漏れてくる言葉は、ひどくたどたどしく、ぎこちない。
伝えたいことは、話したいことは山ほどあるのに。胸のうちの想いに反比例し、唇と舌は重く淀んだまま動かない。
「少し、痩せたかしら……疲れてるんじゃない?」
聞かなければ。
このまま、矛盾した想いを抱き続けていれば、遅かれ早かれ、精神は混乱する。そうなる前に、手を打たなければ。決意したはずの心が揺れ動き、そして傾ぐ前に。
「本当に……」
だが、焦る気持ちとは裏腹に、言葉は重く、背にのしかかってくる。
「本当に、姉さん、なのか……?」
「あらあら」
画面の中で、マティルデは唇を大きく横に広げながら微笑む。
それは、いつものマティルデの癖だった。クレーメンスが成人してからも、彼のそそっかしい行動を微笑みながらも受け入れてくれるときの、慈母のような微笑み。
もし相手が偽物であったとしたら、そうした細かい記憶や癖までを完璧に模倣することはできないに違いない。
「私はちゃんと言ったはずよ? 必ず戻ってくる、って……そうじゃなイ?」
電波の乱れか、語尾の音声が僅かに歪んだ。画面が揺れ、横向きのノイズがぶれを大きくさせる。
通信が切れそうなのか。
「マティルデ」
画面に縋りつくように、クレーメンスが詰め寄る。
「あなたとの約束どオり、こうして戻ってきタの……」
声が歪む。ディスプレイの色彩が乱れたのか、それとも通信の信号がエラーを起こしているのか、マティルデの双眸が赤くなる。
はっとして、クレーメンスは画面から身を離した。
「お前……」
ずっと感じていた違和感が膨れ上がるのを感じる。
どうして、マティルデがあの激戦で生き残れたのか。
報告では、戦闘の終末にはM.Y.T.H.すら使われたと聞く。調整が終わっていないM.Y.T.H.を発動させれば、効果領域が一定しない渦に巻き込まれ、生き残ることはほとんど不可能なはずだ。
つぅ、と紅が頬を伝う。
クレーメンスのみならず、その場に居合わせた誰もが異変に愕然とする。マティルデは、血の涙を流していた。白磁の頬を伝い落ちる、紅の雫。それが濃密な鮮血であることを証明するかのように、雫の道筋は色褪せることなく残っている。
何が起きた。何故血の涙を流す。
「クレーメンス様!」
画面の中で、識別信号のマークが次々に消失する。
「艦船属性変更、識別信号が……有り得ない、こんなことッ……」
「映像出せッ!」
クレーメンスの怒号に弾かれたように反応し、メインモニターに艦船の映像が表示される。
そして彼等は、信じられない光景を眼にした。
マティルデの旗艦<饌速日神>の外装が、次々と弾け飛んだのだ。
何かの攻撃を受けている様子でもなく、独りでに。そして露呈した内部組織を覆い隠すように、ピンク色の光沢のあるゲル状物質が内側から染み出るように覆い尽くした。
よく見れば、それには赤と青の毛細血管が透けて見える。
肉の塊が、艦の中に巣食っているのか。
外装の崩壊は続き、今や戦艦の全容は以前の面影を全く失ってしまっていた。
不気味な肉腫に覆われた戦艦の胴が、内部からの爆発を起こす。黒い槍のような突起が肉を突き破って二本現れた。
あまりに信じがたいその現象に、操縦士一堂は言葉を失っていた。
その黒い突起は、戦艦の全長の半分以上をも伸び上がり、そしてばさりと拡がった。
それは突起などではなかった。骨格と皮膜とを兼ね揃え、そして強靭な筋肉を纏わせたそれは、翼であった。
「……マティルデ……」
うわごとのように呟くクレーメンスを嘲笑うように、変生は続く。
船首に当たる部分の肉腫の中に、白い塊が次々と生成されていく。それらは互いに並び、繋がり合い、ぐんぐんと前方へと生長していく。悪夢、としか言いようがない現実。桃色の男根のように伸張したその先端が、横一文字に割れる。濃い桃色をした内側には、びっしりと鋭い歯が並んでいた。
クレーメンスは愕然とした。
これを同じものを、彼は確か見たことがあった。
写真で、である。
明瞭な写真ではなかったために、今のように細部に至るまで記憶と合致させることはできなかったが。
監視衛星によって、<Taureau d'or>の交渉部隊との戦闘になった最中に撮影されたものと同じ。
きええぇえええッ。
口腔を開き、奇怪な有翼竜となった戦艦は、いまだ眼球が発達しておらぬ頭部をこちらに向け、そして威嚇するように鳴いた。