第四十三章第一節<The Mirror>
視界が急速に晴れていく。
<Kether>上空を覆っていた幾つもの渦を持つ雲対流を抜け、雲海のさらに上空に出た途端に、視界を黒と群青が混じった美しい色彩が埋め尽くした。
地上では、活動に支障のない程度の空気濃度であったことを考えると、まだここには空気が希薄ではあれど残っているだろう。だとするなら、本格的な加速に入るにはまだ危険がある。空気分子との摩擦により、宇宙空間における移動と同程度の加速を行ったとしたら、船体外壁は数秒で融解してしまうだろう。大気圏を離脱するまでは、出力を抑えたまま重力の枷から抜け出さねばならぬ。
本来の出力の半分以下の速度ではあるが、それでもぐんぐんと地表からは離れていく。既に電離層は突破しているために、光学系の呪術機構は継続した使用が可能になっている。
「有視界中に機影なし、全方位反応ありません」
「探査結界、起動します」
クレーメンスはブリッジの指揮官席に身を沈めながら、異界の空をじっと見つめている。
今のところ、異常は見られない。大気層が予想よりもずっと分厚く存在していただけで、その領域さえ抜けてしまえば何等問題はないのだが。
雲海の平原がさらに遠ざかり、加速度的に大気密度が下がっていく。
「よし」
シートから立ち上がったクレーメンスは、本格的な作戦行動を開始させる決意を固める。
「地上探査を開始、直下にある城以外の巨大建造物のスキャンを始めろ」
「了解!」
この世界に入り込んでくる者がいるとしたら、それはまず間違いなく、自分たちが追っているものと同じ目標を持っているだろう。
あの異形の城の中にL.E.G.I.O.N.が追っている何かが隠されているのかどうかは分からない。
ひとまずは高度を上げた地点からの地上探査を行い、それらしき建造物の有無を調査。同時にあの地点を想定し、他の活動可能領域からの転送部隊の迎撃を準備する。
こちらの手勢は、戦艦十三隻、呪的戦略艦四隻。決して充分といえる装備ではないが、みすみす殺されてやるには惜しい数だ。
今頃は、奴等は揃って城の奥を目指していることだろう。こちらも迎撃の必要性がなくなった時点で合流する旨を伝えている。
悲しみに打ちひしがれている時間は、もう終わったのだ。
クレーメンスの横顔に、悲痛な淀みはない。
否、少なくとも、眼に見えるような表情はなくなっていた。いつまでも、後ろを向いていては生きてはいけない。今はまだ出来なくても、そして頼りなくても、震える膝を叱りつけ、己の両脚だけで立ち上がろうとしなければ、この先もずっと同じままだ。
「クレーメンス様」
いつしか部下が隣に来ていたことにすら気づいていなかったクレーメンスは、肘を突いたまま振り返った。
「……ん?」
「城を除きまして、地表面に同規模の建造物は確認できませんでした」
「わかった」
その報告で、何かが隠されているのはあの城であることが判明した。これから継続して一定時間、当該宙域の結界スキャンを行い、それで反応がなければ。
「結界に抵触質量あり……形状、質量規模より、戦艦クラスの人工的物質です!」
「よし」
その報告はこれからの戦闘を予想させるものであったにもかかわらず、クレーメンスはどこかで安堵していた。
何故か。
戦闘の中に身を置いている間は、マティルデのことを考えずに済むからか。
それが単なる逃げの姿勢であることは分かっている。しかしそれよりも、結界を張っておきながら、反応が何もないという沈黙に、今の自分の精神状態が耐えられないであろうという懸念もあった。
疲弊した精神は、沈黙から恐慌を生む。もしや既に結界の中に入り込まれているのではないかという不安が生じ、また何らかの幻術系対抗呪式が展開されているのではないかという疑念が孕む。
「総員、特級戦闘態勢に移行、各艦に伝礼せよ」
「……クレーメンス様」
命令が下ったにもかかわらず、操縦士の一人がヘッドホンを耳に当てながら、こちらに振り向く。
その顔には、強い逡巡があった。言うべきか、言わざるべきか。しかしその迷いの原因は他ならぬクレーメンス自身にある、そう言いたげな表情。
「どうした」
「……目標艦隊、およそ艦船数三十余隻です……ですが」
「はっきり言いやがれ」
「……はい」
震える声で操縦士は一度言葉を切り、そして意を決して真実を告げる。
「識別信号、受信しました……八尺瓊勾玉師団の艦隊、です……」
それを聞いたクレーメンスは、自分がどのような顔をしているのか、すぐには分からなかった。
喜ぶべきなのか、冷静さを失わぬようにすべきなのか、それとも。もしや、それはこちらの判断を迷わせるための幻術なのか。
「……生き残っていたんですね、マティルデ艦隊……」
クレーメンスは操縦士の手元のディスプレイに近寄り、覗き込んだ。
こちらに近づいてくる艦船の機影が、はっきりと映し出されている。それらの光点それぞれに、八尺瓊勾玉師団を示す紋章が識別信号の解析結果として表示までされている。
識別信号の改竄を行っていない限り、誤認は有り得ない。そして、艦船を見分ける判断材料となるそれは、おいそれと改竄されぬように、幾重にもセキュリティをかけるのが通例だ。
そのため、識別信号はかなり信憑性の高い情報として扱われる。
「……マティルデ……」
呟きは、言霊を結ぶ。言霊は虚空を駆け、飛来する。
だが、クレーメンスは手離しには喜べない理由があった。
自分とマティルデとは、霊的な絆で繋がっているはずだ。もし彼女が生きているのだとしたら、それはまず自分が判別できるはずであった。それなのに、なぜ、全く知覚できないままに、マティルデの生存が確認されるのだ。
その疑問に答えるかのように、次の瞬間、操縦士が声を張り上げた。
「八尺瓊勾玉師団艦隊より入電! 通信者、マティルデ・ミーゼズ師団長!!」