第四十二章第一節<Stolen Time>
「……ヴォードロウ?」
呼び慣れぬ名を口にするラーシェンの眉が寄せられた。隣で歩を進めるジェルバールは、鋭く尖った顎を頷かせた。
大広間での、龍牙炎帝の治療が終わってから半時間。一階部分にある扉と二階のテラスの奥に進む廊下と、城の内部へと続く経路は二つ発見された。
二つの理由から、龍牙炎帝を加えた九人は、二手に分かれて進むことを決定した。
理由の一つ目は、とにもかくにも時間が残り少ないということであった。この城に侵入しているのは自分たちだけではあるまい。現実に、先行しているアンジェリークと白仙らのうち、既に一人が打ち倒されているのだ。
不幸中の幸いにも一命を取り留めているものの、戦闘能力は確実に殺がれている。こちらが非戦闘員も抱えての移動に対し、追跡者はそれ以上の機動力で追い詰めてくるだろう。ある程度のアドヴァンテージを確保していなければ、勝敗は戦う前に決していると言っても過言ではなかった。
そして第二の理由は、その追跡者にあった。
事前の情報が正しければ、自分たちの後ろから追いすがってくるのはL.E.G.I.O.N.。これまでに数度、L.E.G.I.O.N.の手の者と刃を交わしている者なら、その異常なまでの戦闘能力が身に染みて分かっているはずだ。その手勢が、複数いるのだとしたら。
これまでの目撃談から、L.E.G.I.O.N.の有する戦闘集団が単独であるとは考えられぬ。まさに一騎当千たる彼等に遭遇し、もし固まって行動していたら。
恐らく逃走することは不可能であろうし、また見逃してもらえるはずがない。
すなわち、遭遇はそのまま全滅を意味する。その戦力差はどう足掻いても埋めようのないものであり、これに対応した策といえば、自分たちを二手に分けることであった。
頭数は減少するものの、手詰まりになる可能性を少しでも削減するには、それしか手はなかった。
その作戦により、選出されたメンバーはこちらは四人。ラーシェン、セシリア、ジェルバール、そしてフェイズ。こちらが直接攻撃に特化している分、逆にもう一つの団体は呪的攻撃に特化したメンバー編成となっていた。
そして、大広間を出発してから、無言を通していたジェルバールが、やおら口を開いたのだった。
「聞いたことのない名だ」
この名を知っているか、と問われたラーシェンは、しばしの黙考ののち、首を横に振った。
「ならば覚えておけ」
視線を交わすこともなく、ジェルバールは足早に進みながら低く呟いた。
「ヴォードロウ・ジェル・イェスパー・フォレスティア。我等が偉大なる長兄の名だ」
その言葉は、ジェルバールが考えている以上の衝撃をもってラーシェンを打ち据えた。
足を止め、そしてジェルバールを驚きに見開かれた瞳でひたと見据える。その傍らを歩調を緩めることなく通り過ぎたジェルバールは、振り向くことすらせずに声だけを飛ばしてくる。
「止まっている時間はない……急ぐのではなかったか」
「長兄……ということは」
「ああ、俺よりも年長になるな」
「そんなことは……」
ラーシェンにとって、その話はまさに青天の霹靂であった。何の予兆もなく、そして思い当たる節もなく、唐突に提示されたそれ。
「そうだろうな」
ジェルバールの横顔は、まるで新品の剃刀を思わせた。切れ長の瞳、長い睫、そして鋭角な顎の線は、そのままジェルバールの追憶を体現しているかに思われた。
「無理もない……長兄ヴォードロウのことは、私を含め、ごく一部の人間にしか知らされてはいない……私自身、長兄と言葉を交わした記憶など一度もない」
記憶にあるのは、その名のみ。言葉を交わした記憶は愚か、血を分けた兄弟にもその存在すら知らされぬということが、どれほど異質なことであるか。
その混乱を今、ラーシェンは身をもって体験していた。
自分の知らぬ家族の存在は、否応なく空白の時間を感じさせる。当然、己の知らぬ時間というものは否定のしようがない。人の命は有限であり、だからこそ連綿と受け継がれていく必要が生じてくる。
しかし、家族が自分の知らぬ世界を知っているということは、話は別だ。それまで無条件に信頼していた絆が大きく揺らぎ、そして自己存在認識すらも危うくさせる混乱が精神に襲い来る。
「どういうことだ」
「ヴォードロウは十四の年で、時を奪われた。彼の能力はChevalierとして発現したが、その力は恐るべきものだったからだ」
S.A.I.N.T.の戦闘能力すらも軽く凌駕するほどのChevalierの能力は、当然のことながら畏怖ではなく恐怖の対象となった。
そして、王家の取った対策とは。
「時を……?」
「相対性理論を利用した呪術機構だ。光速を超える分子変化を持つ流動体の中に、仮死状態にあるヴォードロウを封印したのだ」
物質の移動速度が上がればそれだけ物質自体の保有する時間経過速度は緩慢になる。相対性理論を一言で説明すれば、観測位置に関わらず速度が一定と計測される、ということにある。速度が一定であるならば、距離と時間の数値が変化しなければならぬ。それにより、保有時間が変化すると同時に、内包する物質、すなわちヴォードロウの保有時間速度をも強制的に低下させる機構を、呪術師たちは完成させた。
実質時間経過は二十余年。それだけの期間を、ヴォードロウは数分の時間経過と共に生きてきた。
「そんな」
傍観者としての立場であるセシリアにも、話の要点はつかめてきた。口元を手で覆い、見つめる視線の先で、ジェルバールは小さく頭を振る。
「所詮、王家なんざ病的な保守派の集まりだということだ……今も昔も、中枢の体制は何一つ変わってなんかいない」
叛乱と情報漏洩を恐れてヴェイリーズを薬殺したように。
否、それよりもなお残酷な処置が長兄には採られていたのだ。時間を奪うということは、殺されることよりも冷酷であるからだ。
ふわり、と闇が風を生んだ。
見れば、それまでジェルバールの影の中に身を潜め、常に死角に位置していたS.A.I.N.T.のフェイズが、行く手を阻むようにして姿を現していた。
こちらに背を向けたまま、廊下の彼方に視線を放っている。
「申し訳ありませんが、これ以上のご歓談はご遠慮ください」
廊下に満ちる闇が、陰々とした旋律に身を震わせる。
フェイズの支配するものは闇。支配者の意思を感じ取り、闇自体が命を吹き込まれたかのように、蠕動を繰り返す。
ぞわり。まるで産毛を逆撫でされるような悪寒が全身を舐る。フェイズが探査のために放った影が、圧倒的な殺気に中てられ、恐怖に震撼させながら後退したのだ。
続いて姿を現したのは、一人の男。
凄まじいまでの生気の躍動が、呼気を通してこちらにも伝わってくる。四肢のみならず、体躯の全てをうねる筋繊維で覆い尽くし、肉の鎧と化した巨躯は、まるで戦のために生を受けた動物のように。
乱れた黒髪は、男の獰猛さをより一層知らしめることに十二分に役立っていた。ぼさぼさの前髪の奥から覗く、野獣の如き瞳。
その姿に、フェイズは見覚えがあった。
「また会ったな」
びりびりと鼓膜を震わせ、床を震動させる重低音。
ジェルバールとイルリックの婚礼を掻き乱した、L.E.G.I.O.N.の刺客。
男の名は、バルドヴィーノ・ザッポーニ。