第四十一章第二節<Climbling>
とっくに感覚の失せた指から、さらに体温を奪うべく冷風が吹き付ける。固く握り締めているはずなのに、指先に感じるはずの、凍てついた鎖の感触はない。赤く腫れ上がる指に、それでもなんとか力を込め、一歩ずつ確実に鎖を登っていく。
足場は冗談のように頼りなく、耳元で唸りを上げる風の僕となって無遠慮な闖入者を振り落とさんとするが如くに大きくたわみ、揺れ、傾ぐ。既に大地は遠く、彼方に去り行き、足下では虚無の闇がぽっかりと口を開けて、哀れな犠牲者を待ち望んでいるかのようであった。
吐き出される呼気は白く濁り、激しい息遣いに唇は乾いて罅割れている。
中腰のまま、そろりそろりと歩を進めるラーシェンは、脇を開いて躰の均衡をとりながら頭上の城を見上げてみる。
鎖の傾斜は城に近づくにつれ、やや急勾配になってきている。それでも足を踏み外さないでいられるのは、やはり鎖一つ一つの環が異様に太く巨大であることであった。
振り向くと、やや遅れる形でセシリアが懸命に登攀を続けている姿が目に入った。
「半分は超えたぞ」
「……ええ」
仰ぎ見る顔は、この冷風の中、汗に濡れていた。赤く火照ったその顔は、明らかに慣れない運動を強いられているせいで、極度の緊張と興奮のための高揚及び発汗作用であった。
本来なら、このような危険な登攀では無理をさせるのが最も危険なのだ。セシリアやイルリック、そしてジェルバールといった、およそ戦闘に慣れてはおらぬ人間には、これだけの所作でも比べ物にならぬほどの肉体的、精神的負担を強いるものである。危機感覚が麻痺し、また肉体の運動能力が低下している中で危険な行動を続けさせることくらい、危ない状況はあり得ぬ。
しかし、今の状況では進退窮まっていると言ってもよかった。
すなわち、何処にも退避できる余裕がないにもかかわらず、登攀を終えるまでは過酷な環境に身を置き続ける以外、道はないという状況だ。
手を差し伸べようにも、セシリアは足下の鎖から手を放すということ自体が出来ないのだ。ただでさえ頼りない足場からさらに躰を離せばどうなるか。
あの城に足を踏み入れても、そこが終着点とは限らぬのに、現段階でこれほどに消耗を強いられては。視線を前に戻すと、先行するジェルバールもまた、危うい足取りではあったが、一歩一歩着実に進んでいる。
「行くぞ、セシリア」
ただ名を呼ばれるだけでも、それは自己存在の再認識に繋がる。労いの言葉が役に立たぬなら、少しでもセシリアの力になれることをしてやりたい。
その一心から出た言葉に、セシリアは力なく笑う。
踏み出した爪先が、鎖の円環の内側に滑り込み、ねじれた。指を締め付けられる痛みに、反射的に足を引くセシリア。
脊髄反射によるその動きで、躰のバランスが大きく崩れる。重力を支える足裏が鎖から離れ、一瞬の浮遊感が三半規管を混乱させる。
凍りついた表情のまま仰向けに倒れるセシリアに、ラーシェンは反射的に動いていた。
だが不安定な足場の上を移動するよりも、自由落下の加速度の発生のほうが速い。鎖を蹴って空中に飛び出したラーシェンは、右手でセシリアの腕を掴みつつ、咄嗟に伸ばした左の指を鎖に伸ばした。だがあまりに太い鎖の表面は、指先だけの摩擦で落下速度を相殺するにはあまりに大きすぎた。
あっさりと指を弾かれ、割れた爪から鮮血が奇妙な曲線を描いて散る。
ラーシェンの脳裏に、指先と鎖との距離が絶望的なまでに開いてしまったことが認識される。高度にしておよそ百メートル以上はあろうかという距離を、何の防禦手段もなく落下すれば、即死は免れぬ。
如何にして、この落下を食い止めるか。その思考を巡らせた瞬間、ラーシェンは左腕に何かが絡みつく感触を感じた。
指の内側に滑り込んできた冷たい何かを、反射的に握りこむ。その動きで筋肉が収縮し、次の瞬間に左腕を襲った衝撃にも脱臼をせずに済む。
ふと気がつくと、落下は止まっていた。
見上げれば、頭上にいるのは黒衣のS.A.I.N.T.、フェイズ。
抜き身の剱の切っ先から伸びた闇色の触手がぴんと張られ、それが自分と鎖とを繋いでいた。影を使う戦闘剱術を修めた彼でしか成しえぬ、それは救済措置であった。
「……ゆっくりと引き上げる。あとは登ってこられるな?」
ずるり。
二人分の重量をものともせぬ闇の触手の力に、ラーシェンの躰はぐいと引き上げられ始めていた。
セシリア救出劇から半時間後。
それ以上の事故が起こることなく、彼等は城へ辿り着くことができていた。
幾本もの鎖が集合するすぐ傍らには、崩れかけた足場があった。それが果たして石組みなのか煉瓦なのか、それとも未知の金属で出来ているのか。どちらにせよ、黒色の足場は半ばでひび割れ、崩れてしまってはいたが、それでも八人分の重量を支えるには充分だった。
そして、足場の先に姿を現したのは、両開きの黒曜石の大扉。その表面にはかつては精巧な彫刻が成されていたのだろうが、今では風化し、砕け、見る影もない。以前はここで如何なる営みが行われていたのかを推測する手がかりは何もないが、扉の大きさから決して少なくない人間がここを出入りしていたのだろう。
それが、大きさと巧緻さによって徒に権力を鼓舞する、不毛な顕示欲の表れだとしても、である。
扉は中央の線で両断され、それぞれに左右対称な絵画として彫刻が施されていた。かろうじて認識できるのは、互いに向かい合い一対の男女がレリーフとして彫られているということであった。
男が手にしているのは巨大な錫、女が手にしているのは壮麗なる杯。
その彫刻が、かつて<Kether>への鍵を求めて争った守護者を現しているのだと知った彼等は、静かに、だが激しく動揺した。
何故なら、この彫刻が磨耗するだけの歳月よりも以前から、あの二人はこの地を守護してきたということなのだから。
二人の存在が人ではないということは、既に判明はしている。守護者が生身の人間であるほうが、まだ救いはあった。人ならぬ者が悠久とも思える歳月、ただひたすらに守護を担い続けてきた、この鉄鎖の城の中枢には、一体何があるというのか。否、LL.E.G.I.O.N.が渇望していたとされる秘儀の王冠とは、一体なんであるのか。
ここまで来たからには、知らねばならぬ。そして同時に、L.E.G.I.O.N.に最奥の秘宝を渡してはならぬ。
その決意を胸に、扉に歩み寄る男が二人。かなりの重量があるかと思われたそれは、フェイズとラーシェンの力によって、ゆっくりと内側へと開いて行った。
ごぅん。
割れた鐘を思わせる響きをもって、扉は開かれた。
果たして幾星霜の時を封印されていたのか、城の中から流れてくる空気は不思議な香りがした。
闇が湛えられているその中に光が差し込み、とろりとした粘着質の闇が払われていく。巨大な螺旋階段、豪奢なバルコニー、無数の扉群。それらに目を奪われるよりも先に、八名の視線はただ一点に収斂した。
床に倒れ伏す、人影。浅黒い肌と、高く結った黒髪。うつ伏せになっているために表情までは分からないが、それが誰であるかは一目で判別ができた。
白仙が一人、龍牙炎帝。