第四十一章第一節<Castle of Chain>
それは、輪の太さが成人男性の腕よりも太い、見たこともなく巨大な鎖であった。触れてみれば、それはひんやりと金属特有の冷たさを帯びていた。表面は滑らかであり、その形状からして明らかに人の手によるものであることが容易に分かる。多少のざらつきはあるものの、それが自然の造形による偶発的なものではないことは明白であった。
黒く深い色彩をした鎖はその素材が鉄なのか、それともいまだ知らぬ金属なのかは判別しない。時折吹きすさぶ、身を切るように冷たい風が鎖を揺らすと、まるで冥府に堕ちた亡者を嘆く鐘の音のような、重々しく陰鬱たる音が響き渡る。
ラーシェンは膝をついていた体勢から立ち上がり、裾についた砂埃を払った。そうすることで、異様な全貌が視界に飛び込んでくる。
それは、峡谷に浮いた巨大な城であった。
ここからでは、城のほうが高い位置にあるために、詳細までは見て取ることができない。峡谷の谷底に打ち込まれているのは、身の丈を遥かに越えた巨大な楔。大地深くに突き立てられた楔に固定され、緩やかな傾斜によって頭上へと伸びているのが、同じく尋常ではなく巨大な鎖なのであった。
そしてその先、鎖の向かう先に、空中に固定された城があった。
かなりの距離があるにもかかわらず、眺めているうちに遠近法が麻痺してくるほどに巨大な城。特殊な力場が働いているのでなければ、質量もそれ相応のものがあるのだろう。城一つを空中に固定している鎖が如何に巨大だとはいえ、十数本の鎖で基礎を固めているということがどれほどに異常な構造であるのか、力学を知らぬ者でも理解することはできるだろう。
「……やっぱり、入り口はないの?」
「見たところ、これしかないだろうな」
傍らにいるセシリアの不安げな声に、ラーシェンは眼前の鎖を指して答える。
文字通り空中に浮かんでいるあの城に向かうには、その他の経路は存在しない。如何に頼りなくとも、あの城に向かうにはこの鎖を辿っていく他はないようであった。
見上げれば、大きく迫り出した対岸からもかなりの距離がある。一見しただけでも、跳んで渡れる距離とは思えない。
「戻るぞ」
谷間を吹き抜ける、乾いた冷たい風に首をすくめ、ラーシェンは重々しい葬送曲を奏でる鎖に背を向け、歩き出した。
一体誰が、その地を<Kether>であると認識できたことだろう。
伝承によれば、<Kether>は光輝であり栄光、かつ至高なる存在、いと高きものとして語られている。そのため、このような辺境の荒野もかくやと言わんばかりの世界が第一活動可能領域の<Kether>だとしても、にわかには信じられぬのも無理はなかった。
しかし、それぞれの回廊転送からこの地へと実体化したということを考えれば、この冷気と荒野と鎖で繋がれた城のあるこの地こそ、至高の領域たる<Kether>であるのだろう。
その証拠に、かつて<Binah>及び<Cochma>に旅立って行った仲間たちが、こうして顔をつき合わせているのだから。
どのようにして、この惑星に着陸したのかは、不思議なことに誰も覚えていなかった。自分たちは愚か、操縦士たちに至るまで、意識を取り戻したらこの大地に艦が着陸していたというのだ。しかも総勢で十数機ある艦隊が全て、ニアミスを起こすことなく等間隔に着陸しているということ自体、奇妙な現象なのであった。
意図的に人間の記憶を抹消する効果を疑ってみたが、どうやら記憶が不鮮明なのは着陸に関することだけであるようだった。
ラーシェンとセシリアが戻ってみると、火を焚いている人の輪の中から立ち上がる人影があった。炎のために逆光のシルエットとなってしまっているが、片腕のギミックの輪郭から、それが誰だか判別することができた。
「なんか見つかったのかい」
「いいや」
腰に手を当てているニーナに、ラーシェンは首を横に振った。
あれだけの巨大な城と鎖の存在は、既に彼等も知るところであった。
問題は、別ルートで城への侵入経路が存在するのかどうかである。
無論、あの鎖を渡って城に行くということが、常人のみならず戦闘技能が卓越したS.A.I.N.T.やSchwert・Meister、Facultriceにしてみても、常軌を逸した行為であることは変わりがなかった。
「構造はどうあれ、あの城には鎖を伝っていくしか道はない……わかったことはそれだけだ」
「……そう」
落胆の色を隠せないニーナは、視線を炎に向け、そして呟いた。
「じゃあ、覚悟を決めるしかないってことか……」
「もう一つ、連絡だ」
いつの間にか、隣にいたジェルバールは、ラーシェンに向けて折り畳んだ紙片を差し出した。
黙って受け取りつつ、視線でそれが何かを問うラーシェン。
「アンジェリーク、それに彼女の部下三人は、既にあの城に向かっているようだ」
紙を開くと、美しい書体で文章が綴られている。
先行してしまうことに対する謝罪と、多くの仲間の仇を討ちたいという執念。
短いが強い意志に満ちた文体のそれを一読すると、元の通り折り畳む。
「あの鎖を、上って行った……ってことになるのだろうな」
それしか他に道はない。ラーシェンはもう一度来た道を振り返り、そして闇空に浮かぶ城を見やる。
時間がないのは、自分たちも同じだった。最後の通信で、第四騎士団元帥バルダザールが戦死したことまでは把握している。その情報からすれば、恐らくこれまで以上に熾烈な艦隊戦が繰り広げられていたであろうことは想像に難くない。
果たして<Taureau d'or>と<Dragon d'argent>の艦隊はどうなったのか、そして凄まじい能力を秘めたL.E.G.I.O.N.はどうなったのか。
今、こうしている自分たちには、それらを知る術は残されてはいない。
「クレーメンスの調整の目処がつき次第、出発する」
ジェルバールはそれだけを伝えると、くるりと踵を返す。
傍らを足早にジェルバールが通り過ぎても、名を呼ばれたクレーメンスは顔を上げようともしなかった。
ぱちぱちと炎の爆ぜる音を聞きながら、クレーメンスの横顔は紅蓮に照らされていた。
誰一人として、その意気消沈したさまを見れば声など掛けられようはずもない。何が起きたのか、はっきりとは分からぬものの、クレーメンスとマティルデの通信を知る者であれば、おおよその予想はついていた。
二人の間には、実の双子にも決して負けないほどの、霊的な絆があったのだ。
クレーメンスにしか分からぬその波長を、彼は逃すことなくしっかりと捉えていた。
すなわち、マティルデの消失を。
一瞬、マティルデの表情、気配、髪の香りが全身を突き抜けていく感覚が彼を襲った。初めての経験ではあったが、それがマティルデの死を意味するものであることは明白であった。虚ろな瞳、抜け殻のような表情のクレーメンスのもとに、駆けつけてくる足音があった。
艦隊の操縦士らは声をかけてもよいものかどうか僅かに迷った挙句、彼の名を呼んだ。ややあって顔を上げ、頷いて見せたクレーメンスは、やがてふらふらとその場を離れて行った。
冷徹とも取られかねない態度を前に、ラーシェンの表情が曇る。
兄の性格を考えれば、別段不自然な挙動ではないことくらいは分かる。
だが、ラーシェンには大きな負い目があった。心にやましい部分があるだけで、普段なら気にもならぬことが重圧として感じられてしまう。今のラーシェンは、まさにその状態であった。
「……大丈夫」
立ち竦むラーシェンの腕に手を重ね、セシリアは囁いた。
「あの方は前から、ああいう物言いをなさっていたんですから……だから、大丈夫よ」
ずくん、と胸の奥が痛んだ。
決して癒えることのない、見えない傷。
裂かれ、穿たれた肉は塞がることなく、死が訪れるそのときまで、忠実に鈍痛を訴え続けるであろう。そして、その痛みは他ならぬ、贖罪の証。痛みを感じていられるうちは、まだ。
「……そうだな」
目を閉じたまま、ラーシェンは小さく応え、頷いた。