第四十章第一節<M.Y.T.H.>
マティルデの眼前で、<天鳥船神>はゆっくりと崩壊を続けていた。無数の光点が生まれては弾け、また膨れ上がっては消えていく。真空中には音の伝達がないため、その光景はひどく幻影的なものとして見えることであろう。
しかし、マティルデは違った。
何故なら、あの要塞の運命を決定付けた者たちを知っているから。巡洋艦に乗せ、突撃を命じたのは、他ならぬ自分なのだから。
こうなるかもしれないということは充分過ぎるほど分かっていた。否、死出の旅路となるであろうことはほぼ決まっていたようなものだ。
それなのに、彼等は、そしてメイフィルは指摘しなかった。まるで自分こそが適任者であるかのように、選出され、命じられた彼等の顔は一様に笑っていた。
私の命令が、お前たちの命を奪うものであったというのに。家族、恋人、親友から、お前たち自身を引き離し、悠久の闇へと追いやる言葉であったというのに。
それでも、彼等は笑っていた。
モニターの中でゆっくりと崩れていく要塞の姿は、メイフィルの作戦が想定以上の大成功を収めたことを意味していた。
当初は防禦術式を停止させるだけの任務であったはずだ。要塞の中でどのような事態が起きたのかは知る由もない。しかし要塞それ自体の崩壊は、戦局を大きく揺り戻す。
しかし同時に、それは残酷な宣告でもあった。いまだ巡洋艦からの通信はない。とすれば、メイフィルやユベール中尉、そして乗組員らは命を落としたということにほかならぬ。
「……もう」
指が折れるかと思わんばかりに握り締め、マティルデは熱い雫を顎から滴らせた。
「もう……終わりにしましょう……」
既に半数以下にまで撃墜されている第四、第五複合艦隊は、まるで逃げ惑う満身創痍の獲物のようであった。見るからに艦隊としての機能はしておらず、ただ逃げ惑い続けることで生存する時間を秒単位に引き延ばしているようにも思える。
満足な反撃すら出来ず、牽制としての光学兵器に翻弄され、分散したところを各個撃破の的にされ、確実に艦数を減らされていく。至近距離にまで近づいた要塞<ユグドラシル>から継続して出撃する艦隊の前に、誰の目にも壊滅は間違いないように思われた。
「現在の艦数確認、五十八、いまだ減少中です」
「急ぐんだ」
腕を組んだままのジークルドは旗艦ブリッジにて、戦略モニターを凝視。そこには命運が尽きかけた自軍艦隊の位置表示が示されている。その周囲に群がる悪鬼のような赤い光点は第二騎士団のものであった。
第四騎士団元帥バルダザールの戦死の報は、彼の元にももたらされていた。指揮系統を失った第四艦隊は現在、かろうじて生き残っている第五騎士団大将セヴランの指揮下へと組み込まれている。
だがこのままでは、セヴランの命すら危うい。自力による戦闘宙域の脱出すら出来ないまでに追い詰められた彼等に、最早逃げ場など存在せぬも同義であったからだ。
急げ、ジークルド。急げ、出来うるだけ早く。
指揮官席に坐したまま、己に呟きかけるジークルドの意識は、次の瞬間に響いた操縦士の声によって現実へと引き戻された。
「ジークルド様、第五騎士団セヴラン様より通信です!」
「繋げ」
半ば腰を浮かせるようにして、ジークルドはセヴランの声を待つ。
ややあって、ひどい雑音の中から、掠れたような声がスピーカーから再生された。
「……ジークルド……俺は……」
「もうすぐ俺が行く。それまで持ち応えろ」
そうは言いつつも、ジークルドはセヴランの声に潜む気配を敏感に感じ取っていた。数多の戦場を駆け抜けてきた者だけが分かる、その気配。
これまでジークルドの読みが外れたことは、ほとんどなかった。それはすなわち、死相と呼べる類の気配。
「駄目だ、この宙域はもうすぐ陥落する」
それは、エレベーターホールで言葉を交わした男とはまるで別人かと思われるほどに、憔悴しきった声であった。
「お前は来るな。これ以上」
「セヴラン」
肘掛を握り締め、ジークルドは身を乗り出した。
「俺は、この馬鹿げた戦いに終止符を打つために行く」
苦悶する龍のように、複合艦隊が悲鳴を上げる。
「済まんが、お前たちを救出し、護りつつ前線から離脱させられるだけの兵力は、もう残ってはいないんだ」
言葉にならない、乾いた笑いが聞こえてくる。
それは、常人であれば耐えられぬ言葉であっただろう。何故なら、ジークルドの言葉は、事実上の死亡宣告であるのだから。それまでかろうじて生きてきたセヴランに対し、ジークルドの言葉は、自分の身を守るので精一杯だ、と伝えていることと同じだからだ。
「……なるほどね」
何を理解したのか、セヴランは承諾の言葉を口にした。
「ああ、だから、もう心配するな」
何かが符合であったのか、男たちは互いに頷きあった。狂気と死鬼が支配するその戦場で、二人は互いに互いを感じ、通信を切った。
通信断絶から七分。
肉眼でも幾千の命華が散る閃光が見えるところまで来たジークルドは、静かに、そして厳かに、傍らに控えていた技師を呼ぶ。
「準備はいいか」
「いつでも発射可能です」
短く頷き、ジークルドは拳を固め、そしてモニターに向かって叫んだ。
「<Taureau d'or>第五騎士団、セヴラン・ファインズ大将!!」
その声が聞こえるわけがなかったが、それでもジークルドの朗々たる声は力強く、低く、響いた。そして彼は、あの日――セヴランと共に両軍兵士を沸かせ、両軍より脱退を決意したその日から決して口にすることのなかった、<Taureau d'or>という名を声高に言い放った。
「貴殿は、私が肩を並べた中で、最も勇敢で、最も思慮に富み、そして最も優しき男であった!」
ごぅん、と低い震動が艦を震わせる。
発射台に、その巨大な砲身が身を横たえた。
「汝に敬意を表しよう、そして、汝と共に戦い、傷つき、死んでいった者へも同様に!!」
弾頭安定装置が解除、数々のケーブルが自動的に外されていく。
内蔵されたコンピューターがメモリーをロック、それ以上の遠隔更新を不可能にする。
同時刻。
「テレンス元帥、接近中の第五騎士団より攻撃予兆発生です!」
「煩い」
<天鳥船神>の結界が失われたとしても、こちらには戦略結界がまだある。
強度、効果、領域全てにおいて<天鳥船神>のそれには遠く及ばぬが、艦隊戦同志の攻撃を受け流すだけならば充分だ。
「いらん報告の前に、さっさとやることを……」
皮肉の一つでもぶつけてやろうとしたテレンスの声を掻き消すような絶叫が上がったのは、そのときであった。
「攻撃予兆判明しました! 第五艦隊、M.Y.T.H.使用の模様!!」
「何だとッ……!?」
思わずテレンスは立ち上がり、モニターを凝視した。
この至近距離で、M.Y.T.H.だと。否、<Dragon d'argent>においても同等の技術があったというのか。
M.Y.T.H.。
正式名称は、le MYsteie du THaumaturge。
それぞれの頭文字を並べた名を冠せられたそれは、魔術的秘儀という意味を持つ言葉であった。
形状は通常の弾頭と同じであったが、砲撃のほとんどを光学兵器、つまりはレーザーに依存している現在、こうしたミサイルを実戦において使用することは極めて稀であった。
しかしこの兵器は、通常のものが物理的破壊を目的にしたものであるのに対し、物質でありながら呪術兵器に限りなく近い属性を持つ超々広範囲戦略鎮圧兵器であった。
弾頭部分に内蔵されたコンピュータは、呪的戦略艦の演算処理能力に匹敵するだけのスペックを持つものであり、事前に典礼儀式呪をインストールし、高速で擬似詠唱を行わせることによって、数々の神話的世界の中で語られる神族の召喚を行い、呪的破壊を目的とした兵器であった。
高速詠唱の言語プログラムのサーキットレートは、一秒間に五十回。つまり数分で十数年分の典礼儀式と同義の霊力を一瞬で勧請することにより、超絶的なまでの破壊をもたらすことができるのであった。
しかし同時に欠点もまた存在する。
詠唱から呪式展開、勧請、その全てをシステムが代理行使することにより、霊力の制御が不可能になってしまうという点だった。元々、呪的戦略艦をはじめとする呪術兵器の出力調整は常に人間が関わってきた。
それは、通常の物理反応とは異なり、霊力の出力が一定しないため、そこには臨機応変な対応ができる人間が不可欠であったのだ。その安定した霊力発生についての研究がいまだ未完結のため、このM.Y.T.H.もまた開発途上のままであった。
「発射態勢に入ります、カウントダウン十秒前」
一際大きな震動が艦を揺るがす。そして。
神話世界の住人が、その扉を開け放つ時が、来た。