間章ⅩⅩⅩⅨ<硝子の階(きざはし)>
「……そうですか」
報告を受け、沈痛な表情のイルリックは顔を伏せた。長い睫が頬に陰を落とすその表情は、見る者の心に不謹慎とはいえ、美神を思わせるほどに整っていた。
イルリックの背後に付き従う、白衣のS.A.I.N.T.リルヴェラルザもまた、落胆したイルリックに何の声もかけられずにいた。
報告を受信したのは、五分前。
第二騎士団と交戦中の第四騎士団において、元帥バルダザール・ブルーアヴローの乗る艦が撃沈されたとの伝があった。
肩に手を置くことも出来ず、仮面の下でリルヴェラルザはただ唇を強く噛む。主としての絆が強ければ強いほど、リルヴェラルザもまたイルリックに近しい存在と言えた。そして、胸中を苛む鋭い刃の苦痛もまた。
だが、足を止めることはできない。
戦いはまだ終わってはいない。
追いすがってくる運命は、いまだ諦めてはいない。
今は、ただ前に進むだけ。
どんなに大切な者を失っても、如何に輝くものを失っても。
「……行きましょう」
その言葉は、他の誰にも言うことのできなかった言葉。
イルリックの痛みを少しでも理解できるものならば、頭では感じていても口に出すことははばかられるであろうそれ。
間近で耳にしたニーナの双眸が驚きに反応する。
戦という残酷な現実に、もっともかけ離れた存在であると思っていたイルリックが、たとえ演技とはいえ、気丈な素振りができるとは。本当に打ちひしがれたとき、人は一切の虚飾を捨て去らねば耐えられぬものだ。
全てを捨ててすら立ち上がれぬだけの運命もある。それほどに、人は脆弱であり、そして儚い。
「行きましょう、皆さん」
「……そうだね」
唇だけをしっかりと引き締め、ニーナが頷いてみせる。
「安心したよ、あんたにそれだけのことを言う気力があってさ」
「……私だって、本当は……」
それ以上の言葉を紡ぐだけの余裕はまだないらしい。しかし震える語尾を噛み締め、イルリックは顔を上げた。
「だけど、父が護ってくれた命です。それなら、私は……先に進まなければ」
「上等だよ」
金糸のように美しい髪をニーナは義手で撫で、それからモニターに向き直る。
「行こうか、最後の活動可能領域……<Kether>にさ」
「クレーメンス隊は、七分前に転送準備に入った……恐らく、成功していればもう回廊内だろうな」
ニーナは頷き、そしてかつての戦友と部下のことを少しだけ思い出した。
もう、彼等の元へ戻ることは出来ない。もしかすれば、<Kether>での任務が終了すれば、戻ることができるのかもしれない。
しかし、全てはあまりに不確定だ。
決して戻れぬ扉が互いの距離を絶対的にまで引き離してしまっている。
恋い焦がれた男はいなかった。自分を求めてくれた男もいなかった。それをいくらかは寂しいと感じはしたが、今では感謝すらしていた。
狂おしいまでの別離を、経験せずには済んだのだから。
自分に出来ることの全てを、何の後慮もなく、できるのだから。
「象徴図案、<魔術師>展開……回廊転送速度、加速準備!」
僅かにあった迷いを振り切るように、ニーナは操縦士に命令を下した。