第三十七章第三節<Protection for War>
その会戦は、まさに老将バルダザールの一生の記憶に残る中でも、もっとも印象的なものであったであろう。
時を経るごとに薄れ行き、色彩の失われる数多の記憶とは違い、死への恐怖と経験則の一切の否定によって味付けがされた最高の味覚を伴っていたのだから。
第二騎士団との会敵時刻から既に二時間半が経過していた。その間、数え切れないほどの攻撃と防禦、突撃と回避を繰り返し続けたバルダザールの神経は、最早疲弊の極致にあった。
それが通常の戦闘であれば、老将と呼ばれるほどに年の功を積み重ねたバルダザールがここまで追い詰められることはなかったのかもしれない。忍耐力、精神力ともに質の高いものを身につけた彼にとって、持久戦こそが最も得意とする分野であったのだから。
刻一刻と変化し続ける戦局を、経験の浅い者はいたずらに過ぎ去る時間の浪費としか見られぬ。戦場で培われた経験を持つ者だけが、決して焦ることなく戦局を把握し、そしてまた絶好のタイミングを掴んで攻勢への転機を成功させることができる。動くべき時を正確に把握し、そこに至るまでの無益な消耗を避けるだけの術を有している、筈であった。
しかし、バルダザール隊の数値評価は驚くべきものであった。
バルダザールの経験則であれば、眼前に居並ぶ第二騎士団の布陣を、彼は少なくとも五度は殲滅できるだけの手を打ってきていた。
事実、それは彼の過去の戦歴から学んだ兵法であり、戦略であり、切り札であった。
だがその度ごとに、光の渦の中から無傷の艦隊が姿を現しては、彼は振り出しへと戻る苦痛を味わい続けていた。
霊視観測師から送られた、戦闘における攻撃命中率は僅かに1.75%。
こちらの損害率が13.92%であるのに対し、第二騎士団の遠隔想定損害率は僅か0.02%。
それはまさに、悪夢の戦闘であった。
間違いなく攻撃は命中しているはずであった。それなのに、何故か相手の艦隊は被害をこうむってはいないのだ。必中と絶妙の間合いと速度で放つ光の矢も目標を貫くことは出来ず、戦局計算と呪術兵器のために稼動しているコンピューターの処理速度も、格段に低下してしまっている。
実質的に三割以上の速度低下は、詠唱遅延と処理効率の減耗を付随させ、ある一定以上の呪術兵器は事実上使用不可能になってしまっていた。
そのような圧倒的に不利な環境においてさえ、自軍の損害をたった一割強で済ませているのは、まさに老練たるバルダザールの腕があってこそであった。
あらゆる戦闘行為の合間を縫って、傷ついた艦や航行不能に陥った艦を戦線から離脱させ、撃墜を防ぎながら安全圏まで後退させる。
一見しただけでは目立たぬ行為ではあるが、事実バルダザール隊からはいまだ一人の死者も出してはいないのだった。
べたつく嫌な汗に濡れた額を拭い、バルダザールは麻痺しかかった脳を叱咤しつつモニターを見る。
どうして、ここまで完璧に自分の作戦が無効化されるのか。
否、問題はそこではない。最大の謎は、相手が如何にしてこちらの攻撃をこうも完璧に回避し続けられるのかということであった。呪的戦略艦数隻を使った呪力探知にも、第二騎士団内より選定した無作為の検索に該当する術は見られなかった。
「バルダザール様、第二騎士団の陣形変形します」
これで幾度目になるのだろうか。そして、今度こそ、戦果が上げられるのだろうか。
「左舷前へ、傾斜陣形にて迎え撃とう」
「第二騎士団、前進加速、射程範囲到達まで残り……あ、いえ、後方より急速接近中の艦隊あり!」
何ということだ。疲れ切ったバルダザールの脳裏には、それが何者であるのか、正確に思考する力すら残されてはいなかった。
ただ、目前の事象に対応するが如くに手札を繰る、操り人形のようですらあった。
それ故、操縦士の報告にも、口髭を震わせつつ、生存確率のもっとも高い戦局に対応した指揮の号令を喉の奥にまで上らせていたときであった。
「何をやっていらっしゃるのです、元帥」
聞き覚えのある若い男の声が、ブリッジのスピーカーから響いてきた。充血した瞳をあげ、バルダザールは顔を上に向ける。
この声は。
「第五騎士団、ただ今馳せ参じました……これより参戦致します、武勇の横取り、どうかご容赦あれ」
声の主は、第五騎士団大将セヴラン・ファインズ。通信の声と同時に、眼前の第二騎士団に頭上より鮮烈な光の雨が降り注いだ。
その瞬間。
これまでの答えの全てが、バルダザールの眼前に拡がっていた。
にわかには信じ難いことではあったが、第五騎士団が半ば奇襲のような形で放った光学兵器の軌道が、悉く変更させられていたのだ。
いや、それは変更などという生易しいものではあるまい。光の速度で突き進むそれを手動で干渉、軌道修正が出来るほど、人間の反射速度は速くない。
思考速度、神経経路の伝達速度こそ速いものの、筋肉へと刺激を伝達、収縮による運動にまで結びつける段階で光の速度には到底追いつかぬほどの断絶が生ずる。
それなのに、バルダザールの目の前で、第五騎士団の放つ攻撃は、巧みに艦船の間隙を擦り抜けて遥か下方へと消えていった。まるで清水の流れる渓流に突き出た岩を避けるが如くに、水面に落ちた葉船がくるくると回りながら流されていく動きにも似ていた。
そして同時に、そのような完璧な防禦効率を誇る呪術的支援結界の存在など、バルダザールの知識の中には存在しなかった。
しかしその光景は、紛れもない現実。これまで幾度も追い込んでいた必殺の一撃は、全てこのような現象によって命中を阻まれていたのだった。呪的戦略艦の魔力検索が空振りに終わったにもかかわらず、たった今目の前に映し出された光景は、紛れもない防禦系術式。
バルダザールの思考が混乱するよりも早く、第二の警報が鳴り響く。操舵による攻撃回避でないのなら、相手はこちらの攻撃に対応した動きをする必要はなくなる。
ということは、行動を制限することは不可能。
「第二騎士団攻撃態勢、目標第四騎士団艦隊です!」
「呪的戦略艦と通信、呪術兵器で対抗を想定して回避しろッ!」
通常の砲撃が通用しないなら、効果範囲の広い呪術兵器でなら。
詠唱障害が発生してはいるが、通常よりも処理速度が落ちているだけで機能自体に異常はない。ならば、時間はかかるが一撃を放つことはできる。
先刻の結界呪力を再構築することで詠唱速度を短縮させ、旋回しつつ結界を展開。次々と直撃する砲撃に結界が震撼する。
「セヴラン、奴等に光学兵器は効かん! 間合いを取って魔術を使えッ!」
通信機に向かって叫ぶバルダザールのブリッジが、突如激しい震動に襲われた。
「呪的戦略艦<スキールニル>大破! 至近艦、誘爆します!!」
舌打ちを漏らし、バルダザールは拳を肘掛に叩きつける。このままでは、やられるのは時間の問題だった。何としてでも、相手の絶対防禦の隙をつかなくては。
だがその手がかりとなるものは、いまだ皆無であった。
その異常な戦闘に向き合っている者は、他にもいた。
聖教典の情報処理室で、四つのコンピューターと格闘を繰り広げているのは、メイフィルであった。
異常なまでの第二騎士団の防禦効率と、第四騎士団の命中精度の低さに注目したメイフィルは、その調査を開始していたのだった。
監視艦<バロール>のシステムすらも導入し、戦闘宙域の艦船ら全てに十数度に渡りスキャンをかけるが、呪力反応は皆無。しかしそれでは説明がつかない。明らかに装備的格差、戦力的格差がある戦闘条件であったとしても、ここまで極端な差が出ることは有り得ない。
髪の毛をかきむしり、充血した瞳でモニターを睨みつけるメイフィル。どこかに、何処かに隠された情報があるはずなんだ。戦局情報をつぶさに見つめるメイフィルは、乾いた唇で一つ一つの項目を読み上げていく。
第二騎士団艦隊については、最早これ以上スキャンしたところで何も出てくることはないだろう。要塞<ユグドラシル>については、三つの防禦結界以外の目だった反応はない。
第一騎士団は事実上の解体を余儀なくされている。
熱を帯びた額をごしごしと擦り、メイフィルは想定可能な要因を脳内でリストアップしていく。見逃している情報は何処にある。食い入るように画面を凝視し、せわしなく動く瞳は、しかし次の瞬間に一点に絞られる。
まさか。
一縷の望みを賭け、メイフィルの指がキーボードの上で鮮やかに舞い踊る。呪力スキャンを行使、しかし標的は後方待機中の要塞<天鳥船神>。
戦闘宙域からは離れていることと、これまで目だった動きをしていないせいで、メイフィルの意識からは欠落していたのだ。
呪力感知プログラムが動き出すや否や、反応が返ってくる。
「やっぱり……」
構成因子を調査、サンプルを要塞のデータベースに照合して展開された術を検索。
>shield attribute oriental-ritual type
続く文字を見て、メイフィルは愕然となった。
「……北辰妙見大菩薩神咒経……!?」