第三十七章第二節<Old General>
<Taureau d'or>の移動要塞、<ユグドラシル>が座標軸を変更した、つまりは本格的な起動を開始したとの報告は、全艦に瞬時に伝達された。
収容艦数七百、砲門数三千九百。呪力発生用祈祷炉の出力は、戦艦汎用タイプのおよそ百二十倍にも匹敵し、常に要塞周辺の領域には三つの守護結界として、<霧氷界>、<白霜界>、<王神界>という防禦呪式が稼動していた。
守護結界の強度は呪的戦略艦の結界強度を遥かに上回り、三枚の結界の前には戦艦主砲クラスの一撃ですら容易に四散させてしまうほどの防禦力を誇る。大樹を思わせる外観を誇る要塞には、全世界に張り巡らされた枝と神話にも記述があるように、長く迫り出した梢には無数の砲門が並んでいる。
巨大な本体すらも覆い尽くすほどの攻撃圏を持つ、世界樹の名に相応しい、堅牢なる要塞なのであった。
それが動くということは、何を意味するのか。
前線と補給基地との距離が短縮され、同時に攻撃が熾烈になるという長所ばかりではない。
つまり、こちらの攻撃可能範囲に基地が接近するということは、それだけ迎撃を受ける可能性が高くなることをも意味する。諸刃の剱となるその策を下手に使えば、機動力に優れた艦に前線から離脱され、奇襲を受けることも充分に考えられるのだ。
それを承知の上での作戦なのか、それとも<ユグドラシル>の防衛機構に絶対の自信を持つが故の強引な策なのか。いずれにしても、これまでのような作戦が通用しなくなる戦局に一変することは間違いなかった。
「……後退しろ、マティルデ」
旗艦<饌速日神>への通信によってそう切り出してきたのは、第四騎士団<藍玉>元帥、バルダザールであった。
「現在、我が艦隊が最も被害率が少ない……隕石帯を抜けてきた奴等を迎撃しよう」
「心配には及びません」
気丈にも、つい先刻の動揺を微塵も感じさせない口調で、マティルデはバルダザールの申し出を拒絶。
「挟撃の部隊はほぼ無傷のまま帰還しております、前線には私の部隊も是非参加を」
「そう焦るな」
老将は微笑み、そして頷いて見せた。
「お前一人で戦っているのではなかろう……兵たちの疲労も労う余裕くらいは必要ではないかね?」
指摘され、言葉に詰まるマティルデ。
「まあ、少し休みながら見ておれ……我が軍の精鋭の実力をな?」
隕石帯の周回速度を計算した上で、自然の結界の外側へと出撃した<Taureau d'or>第四艦隊は、あれだけの猛攻を受けながらもまだ艦数を揃えられる第二艦隊の装備量の凄まじさに、舌を巻かずにはいられなかった。
<ユグドラシル>を補給基地として出撃した第二艦隊に、先刻の八尺瓊勾玉師団の挟撃によるダメージは殆ど無い。恐らく、損壊率の高い艦は要塞の中で修繕を受けつつ、後方待機をしていた無傷の艦隊を送り出しているのだろう。
最前列までの距離は、互いに充分に射程距離内に入っているにもかかわらず、両者に目だった動きは無かった。咄嗟の対応をしてこない敵艦隊に、バルダザールは口髭を揺らして微笑んで見せた。
「なかなかやりおるわ……なら、こちらから挨拶に出向こうか」
経験が浅いものほど、会敵時に先手を取ったほうが有利であると信じて疑わぬ者が多い。しかも今回の場合、隕石帯を抜けた時点で双方の間合いは通常では考えられぬほどに近い。
間合いが狭く、そして密集している状況において、まず最初に考えられることは、先手を取って包囲し、総攻撃を仕掛けるという作戦であろう。
だがしかしこの場合、前提条件として包囲網を完成させるだけの兵力と艦数が必要になり、また包囲陣形を取ることが求められる。そしてそれらを揃えるには決して少なくない時間がかかるのだが、そのことに目を向けられる者はそういない。
これにより、咄嗟に陣形を広げる者に対して、こちらは初期位置から動かずして、ただ薄くなっていく陣営に攻撃を仕掛けるだけでよかったのだ。
バルダザールの指揮により、艦隊はその形状を変更させる。相手の出方を待つことも重要な作戦であるが、それよりもさらに上位の作戦も存在する。
前進をすると共に、後続部隊もまた中央方向に収束するような陣形を取る。
先端部に位置する戦艦の砲門が開いたのはその瞬間であった。距離と収斂率からして、直撃すれば結界に覆われた戦艦すら無傷では済まない威力の光芒が虚空を駆け抜ける。
攻撃は事前に展開してあった防禦結界に命中し、四散。
もとより初撃で戦果を上げられるとは思ってはおらぬ。しかし、だからこその紡錘陣形であった。
相手の打つ札を半強制的に限定する、それこそがバルダザールの得意とする上位戦術。
次第に攻撃密度が上昇する前線において、先に耐え切れなくなったのは第二騎士団であった。散開したのを確かめると、第四騎士団は加速しながらさらに前進。まるで分厚い鉄扉に打ち込まれる破城鎚の如くに、第二騎士団はその陣形を貫通された。
分断された第二騎士団は、しかし突撃を仕掛けてきた第四騎士団に対して狼狽を見せることはなかった。擦れ違うように移動しつつ、後方に喰らいつくように追撃を仕掛けるかと思われた第二騎士団は、舳先を転回させずにさらに加速。
そのまま隕石帯に突入し、前線を強引に突破しようという策に切り替えたのだ。
「……甘い、甘いな……老獪さをその身で悔いるがいい」
第二騎士団の視界に迫る隕石帯から、突如として光の奔流が放たれた。
背面に待機していた第二陣からの攻撃であった。出鼻をくじかれるように不意打ちを受けた艦隊が隊列を崩すのと、第一陣が急速散開するのとはほぼ同時。
見事なチームワークで、同士討ちを避けさせたバルダザールは、しかし次の瞬間、信じられない報告を目にした。
「なんだと!?」
怒号とも狼狽ともつかぬ激しい声がバルダザールから放たれ、普段な温和な彼しか知らぬ操縦士はしどろもどろになりながらも、報告を繰り返す。
「は、はい、ですが、霊視観測師からの報告では……連携攻撃による第二騎士団への命中率は7%、与えた損害は極めて軽微とのことです……!」
莫迦な、とバルダザールはもう一度モニターに目を移す。あの間合い、タイミング、そして位置関係では、少なくとも隕石帯に最も接近していた部隊は壊滅的な損害を受けているはずであった。
後続の第二陣の攻撃をしくじったわけではない。そのことは、第一陣の只中に身を置く彼自身が、長年の経験と勘でしっかりと感じ取っていた。
あれを躱し切るだけの操舵技術を持つ艦船など、今までに遭遇したことすらない。しかも数隻ならともかく、部隊を構成する艦船全てがそれだけの域に達しているなど、にわかには信じられなかった。
かつては同じ軍部に所属していたのだから、そのような凄まじい技量の持ち主がいれば噂にも上るはずであるのに。
「バルダザール元帥、転回した第二騎士団に攻撃予兆です!」
「詠唱凍結中の各種結界起動! 慌てるな、着弾確認後に移動をしろッ!」
初期詠唱からの起動ではなく、途中で詠唱を凍結保存することで、短期に呪術兵器を行使する戦術であった。凍結には、それまでの詠唱を保存するために記憶容量を大幅に減退させるが、一端起動した詠唱メモリを削除できるため、戦略と組み合わせれば効果的な方法も可能となる。
一歩手前まで詠唱完結させていた呪的戦略艦の結界が次々に起動する。空間に描き出される法紋が重なり合って表示され、多重結界が完成。
次々に結界に突き立てられる光の槍と、その向こうで陣形を整える第四騎士団。
艦船数比率は、第一、第二陣で六対四。隕石帯付近で挟まれた形になった第二騎士団の動向をうかがいつつ、バルダザールは再度の攻撃の好機を見出すため、頭の中で次なる展開を巡らせる。
如何なる手段を用いているのはいまだ不明であったが、バルダザールの切り札を突きつけられてもなお健在な敵艦隊の姿に、老将としての彼の血は熱く滾っていた。