第三十七章第一節<Wailing twins>
彼女の横顔は、まるで聖女のようであった。美しくも珍しい、銀の輝きを宿した長髪は、彼女の美しさを際立たせるだけでなく、決して真似の出来ない域にまで高めていた。
彼女の名は、マティルデ・ミーゼズ。八咒鏡師団長にして、限りなく特異とされた、霊的双生児として生を受けた者。
長い睫は、深い憂いによって伏せられ、頬にまでその陰を落とすかと思われた。薄く紅を引いたような唇は微かに開かれ、そして長い溜息が漏れた。
そして、マティルデはゆっくりと顔を上げた。
視界の先のモニターに映っているのは、八尺瓊勾玉師団長、クレーメンス・ライマン。彼女と同じ銀の髪を持つ、Faculteur能力者であり、彼女の双子の弟であった。
「……そう」
たった今、マティルデはクレーメンスから、報告を受けた。映像は微かに乱れてはいるが、それが活動可能領域を超えての通信であることを考えれば無理もないであろう。
むしろ、画像と音声が両方共に受信できたこと自体が、奇跡のようなものだ。
時折ノイズに歪むクレーメンスは、淡々と告げた。
<Kether>への鍵を手に入れたこと。見知らぬ大地で激戦を繰り広げたこと。<Binah>でもまた首尾よく関門を突破できたこと。
そして、鍵を手に入れたものは、最早来た道を戻ることはできないこと。
「……マティルデ」
感情を押し殺したせいで、抑揚が消えた声色でクレーメンスが呟く。
「なぁに?」
「済まん……こうなることがわかっていれば、俺は」
「何言ってるの」
画面の向こうで、マティルデは微笑んで見せた。しかし、頬に宿る緊張までは隠せない。ほんの僅かな、そして微細な感情が、その笑顔を不自然なものへと歪めていた。
「仕方ないことだったのよ……それに、私じゃあ、あなたみたいには戦えなかったわ」
クレーメンスは細い指を組み、その上に顎を載せたままの姿勢で、沈黙していた。
言うべきことがありすぎて、何から言って良いか分からない。その上、不安定な回線はいつ切断されてもおかしくはない。その焦燥感が、クレーメンスの感情を必要以上に波打たせていた。
「……クレーメンス」
その態度を不安に思ったのか、マティルデが呼びかけてくる。気遣うような響きを含んだその声が懐かしく、クレーメンスの指に力が込められる。
「マティルデ、聞いてくれ」
その瞳は、師団長にしてはあまりに頼りなく、弱々しく、哀れなほどに感情に揺れていた。
「こんなことを、俺の立場で言うべきじゃないのかもしれない、だけど」
「クレーメンス」
先刻の優しさを仮面の奥に隠し、マティルデは鋭い視線で画面を見据える。
「その先を言っては駄目。あなたは師団長、そのことを忘れないで」
「うるさい!!」
力任せに掌をコンソールへと打ちつけ、マティルデはまるで胸中を吐露するが如くに激情を声に乗せる。
「マティルデ、もういいんだ、今すぐ、早くこっちに」
呂律が回らず、舌が言葉を紡げない。それでも懸命に伝えようとするクレーメンスを拒絶するように、マティルデは首を左右に振った。
「出来ないわ」
「どうしてだ!」
悲痛な叫びを上げ、モニターに詰め寄る。
「ずっと一緒だったじゃないか、俺たちは、魂が繋がれた双子だって、姉さんはいつだってそうやって」
悲しい訴えは、声の震えでかき消される。
遺伝子による親族以上の、高位霊質で運命付けられた、霊性双児。それは血を分けた双子に決して劣らぬ、そして恋人よりも強い絆で結ばれていることを意味していた。
人と違う境遇は、それだけで二人に強い結びつきをもたらした。そして、苦悩と喜び、経験と記憶を共有しあった二人は、互いに手を取り合いつつ<Dragon d'argent>の軍部の階梯を登っていった。
二人への陰口がなかったわけではない。いつの時代にも、人は自分とは異質な存在を排斥することを止めようとはしない。けれど、そんな誹謗中傷が霞んで見えるほどに、二人の才覚は抜きん出ていた。
マティルデの統率能力と、クレーメンスの呪的能力。ともすれば閉鎖的になりかねない二人の世界に、ジークルドが足を踏み入れることを、二人は拒まなかった。
二人とも、頭のどこかで、このままではいけないということを感じとっていたのだろう。人の上に立つ以上は、己の殻に閉じこもってばかりではならないと、気づいていたのだろう。理想的な人格者であり、また己を厳しく律する性格のジークルドは、二人の間のよき緩衝者となった。
そうして、<Dragon d'argent>の三つの師団は構成されたのだった。
「クレーメンス」
幼子を諭すように、マティルデは優しく囁いた。
「もし私があなたの元へ艦隊を率いて行ったとしたら、私の部下は私を許してはくれないでしょう」
ぐっと唇を噛むクレーメンス。
自分が、聞き分けのない子どものようなことを口にしているということは分かっていた。けれど、それを包み隠し、押し殺せるほど、クレーメンスは感情を捨て去ることはできなかったのだ。
「それに、残ったジークルド、それに<Taureau d'or>の二人の騎士団長、王家の方たちはどうなるの」
残留兵力が削減されれば、<Taureau d'or>と<Dragon d'argent>の猛攻に耐え切ることは難しいだろう。
「きっと防衛線は破られて……あなたたちのいる場所へ、数万の軍勢が殺到することでしょう」
だからこそ、引けないのだと、マティルデは語った。
「俺は……」
「頑張ったわね、クレーメンス」
まるで母親のように、全てを抱擁し許す言葉を、マティルデは口にした。
かつての子供時代のように。喧嘩をして生傷だらけで帰ってきた弟。試験で満点を取ってきた弟。霊性の双子であるから、年齢は少し自分のほうが上だった。だからこそ、マティルデは姉のように振舞ってきた。普通の姉弟よりも強い絆を守り、弟を守る。それは己をも守ることに繋がっていたのだ。
「けれど、もう少しだけ、頑張って。この戦争に終止符を打てるように、戦乱の意味自体を喪失させることができるのは、あなたたちだけなのよ」
「……お前は、どうなるんだ」
「私は」
そこまで口にしてから、マティルデは言葉を切った。
そして。
「私も頑張るわ。あなたたちが、安心して……<Kether>に行けるように」
微笑み、そして囁いた。
「……この戦いから帰ってこられたら、もう二度とあなたの側を離れたりはしない」
その言葉に、クレーメンスは顔を上げた。
いつの間にか、頬を濡らす雫が顎から滴り落ちていた。手の甲に落ちる、暖かい感触。
「だから、それまで、ほんの少しの間だけ、ね?」
躰を起こし、モニターからマティルデが遠ざかる。追いかけるように、クレーメンスがモニターに詰め寄った。
「あなたのような弟を持てて……とっても、嬉しかったわ」
決して離さぬと誓うように両手で包み込んだモニターの画面が、黒一色に染まった。
通信を自ら切ったマティルデは、最早何も映さなくなったモニターを見下ろしていた。
この戦いが終わったときのことなど、誰にも分からない。自分たちの部隊で、あの猛攻を凌ぐことはできるが、二つの国家機構の有する軍力に打ち勝つには途方もない犠牲が必要だろう。だけど、それでも、逃げるわけには行かない。
「これで……よかったのよね」
迷いをかなぐり捨てるように、マティルデはそう呟いてみた。
五指を握りこみ、ともすれば奔流となって精神の堰を決壊させんとする感情の波を押さえ込む。びりびりと唇が震え、鼻の奥に鋭い痛みが走る。
ぐっと瞼を閉じ、マティルデはもう一度、掠れた声で呟いた。
「……これでいいのよ……」
心のどこかに鍵がかかる、小さな音をマティルデは確かに聞いた。そして、手の中に残った小さく輝くそれを、力任せに虚空に投じる。
最後に一瞬だけ光り輝いて見えたそれは、追憶の中に混じり、すぐに見えなくなった。
無言で立ち尽くすマティルデの背後で、血相を変えた操縦士が振り返る。
「師団長、大変です、要塞が……<ユグドラシル>の座標数値変更、移動を開始しました!!」