第三十六章第三節<Blue Mirror of Goddess>
<Taureau d'or>第二騎士団<琥珀>と第五騎士団<星彩青玉>が戦闘開始を目前に控えた拮抗状態にあったとき。
戦場より数百キロ離れた隕石帯を、必要最低限の機器だけを起動させた別働隊が息を潜めつつ潜行していた。
銀の艦隊には、巨大な鏡の紋章が描かれている。部隊を編成しているのは、十の戦艦と四の呪的戦略艦。その中央に配置されているのは、戦艦<木花之佐久夜毘売命>。マティルデ師団長の率いる八咒鏡師団に所属する艦船たちであった。
艦船の基本信号である識別信号の電源すら入れず、ただ隕石群の周回速度と完璧に移動速度を同調させつつ、ゆっくりと戦場へと向かうルートを取っている。
否、それは目に見えぬ潮流に流されているといってもよかった。何故ならそれは移動というにはあまりにも緩慢であったし、また友軍でさえも事前に艦船が存在すると知らなければ探査結界にも抵触しないような状態であったからだ。
基本的に、識別信号やその他の航行機器の発する電波、霊波によって総合的に艦を障害物と区別するのが一般的な探査方法である。
まるでそこから逃げるように、マティルデの部隊の艦はどれもが隕石と混じりながら、ただひたすらに緩やかな流れに身を任せていた。
だが、それこそがマティルデの戦略なのであった。
第二騎士団の陣営が次第に厚くなる中、セヴランは前線に位置する呪的戦略艦に一切の対抗呪術を禁止し、演算能力と呪力の全てを結界に注ぎ込むように指揮。通常の結界の強度を有する淡い光の幕が、数十の呪的戦略艦から呪式となって虚空に構成され、まさに縦横に張り巡らされていく。
同一の呪術形式に囚われぬ結界障壁の類が、互いに競合せぬようにと緻密な計算のもと、それぞれに同属性の結界を重ねる形で十重二十重と複雑に絡み合う。薄紙をゆっくりと重ねていくが如くに、最早通常の攻撃では愚か、呪術兵器ですら容易に解呪できぬほどの魔術理論式が拡がり、暗黒の空に映し出されていく。
光は強烈な呪力に導かれ、ある結界は魔法陣を描き出し、ある障壁は聖典に綴られた文字列となって展開されていく。まるで神話に登場するイージスの楯の如くに堅牢なる結界を前にし、第二騎士団は一斉に砲門を開いた。
テレンスの命令に忠実に従った前線の攻撃が結界に接触、強烈なエネルギーが結界の呪力に触れることで収斂率を加速度的に散逸させられ、ただの煌きとなって四散していく。
だがそのような現実を否定するが如くに、第二騎士団の猛攻はやむことを知らない。
艦に搭載された、各種宗教儀式炉の稼動限界に挑むかのような熾烈な攻撃の前に、ついに難攻不落であるはずの結界最外壁部位の構成式が揺らぎを見せ始めたのは、攻撃開始から僅かに七十六秒後のことであった。
一定空間内に存在するエネルギーの総量の臨界点に近づき、空間が僅かに軋みを上げる。
しかしそうなれば、先に崩壊の兆しを見せるのはエネルギーの発生点。重力均衡が変則的に書き換えられ、隊列を乱された艦隊同士が抵触し、爆発する。
既にあちこちで艦崩壊が起きているにもかかわらず、第二騎士団の特攻は止まらない。その壮絶なまでの攻撃に、セヴランは寒気すら覚えた。
彼等を衝き動かしているのは、勝利への渇望ではない。行動原理を支配する感情は唯一つ、恐怖。敵対する相手への恐怖ではなく、己の背中に矛先を突きつけるテレンスへの恐怖であった。
そして皮肉にも、恐怖に駆られた暴徒と化した第二騎士団の死と隣り合わせの猛攻が、セヴランの計算を僅かに狂わせた。
論理解呪ではなく、活動限界による呪式拡散による結界消失であった。
抵触するエネルギーを無害なものへと変換し続ける結界の呪力が、制御できる上限を迎えたことによって起きる自重崩壊であった。
通常、そのようなことは起こりえない。何故なら、攻撃が無益であると知りつつ、さらに苛烈な攻撃を仕掛けるということは戦略上、危険であるからだった。
理論上でこそ、結界の作用限界点というものが設定されてはいるものの、結界で攻撃が弾かれれば、別の手段に変更するのが通例であった。結界の内部では刻一刻と手札を読んでいるはずであるし、またそのような力技で押し切れるほど、エネルギーを潤沢に発生させる儀式炉は存在しないためだ。
まさに捨て身の攻撃が、結界を次々に破っている。
当初は数万をも数えるほどであった多層複合結界は、現在はその数を半分以下にまで落としていた。
対する第二騎士団の残存艦数は初期値の約80%強。自滅を狙う時間稼ぎが、このときばかりは通用しない。だが、後退をしては隕石帯の防衛ラインを破られることになる。
焦ったセヴランが、呪的戦略艦の支援を決定しようとした、そのとき。
「お待たせいたしました」
マティルデ師団より、バルバラ中将からの通信がセヴランの元へと届く。
「八咒鏡師団、これより挟撃に入ります」
一瞬の沈黙の後、隕石帯に成りすましていた八咒鏡師団艦隊が第二騎士団に激烈な初撃を放つ。直前までほぼ全ての航行機器をオフにしていたため、あらゆる探査方法においてもそれは障害物として認識されているのだ。
まるで孵化の季節を迎えた蝶のように、次々と探査結界上に出現する八咒鏡艦隊。知らぬ者が見れば、まさに転移をしてきたかのように見えることであろう。そしてそれは、第五騎士団に対して事前に艦間通信としてもたらされた、乾坤一擲の策でもあった。
正面のみにいるとばかり思われていたところに、唐突に右舷から降り注ぐ光の槍に、第二騎士団は成す術もなく隊列が崩壊。
全く容赦のない横合いからの猛攻に、次々と艦隊が誘爆していく。数にしておよそ五十は下らぬ規模の隊列が見る間に無秩序を体現するかのように混乱する様はまさに地獄絵図。
およそ艦隊の数が三分の一にまで激減した頃、ようやく第一騎士団が支援に到着。
襤褸切れのように千々に乱れた第二騎士団の後方から追いすがるようにして到達した第一騎士団は、無傷の姿で猛然とマティルデ艦隊へと襲い掛かる。
三つの艦隊が入り乱れ、乱戦となるかと思われたそのとき、突如として第五騎士団が結界を捨て散開を始めたのだ。
強制力を失った結界は、次々に維持しきれずに雲散霧消。光だけが漂い残るその空隙に、第一騎士団は仇を取らんと侵入を再開。これだけの消耗戦を想定していなかった第五騎士団が、隊列と戦線維持のために後退を余儀なくされた、と第一騎士団は踏んだのだ。
だが、それすらも一連の策の囮にしか過ぎぬ。
全く逆方向からの識別信号が出現するよりも早く、至近距離から第三の攻撃が第一騎士団へと繰り出されたのだ。振り返る余裕すらなく、無防備な腹を食い破られていく巨龍の如くに身悶える<真珠>騎士団。
マティルデの艦隊の伏兵は、左右に二つ存在していたのだった。そして左舷からの攻撃と同調し、右舷にいたはずの伏兵は縦方向へと進路を変換。射線を重ねてしまうことによる同士討ちの愚を犯すことなく、懐へと入り込んだ第一騎士団に滅びの運命を突きつけていく。
そして次の瞬間、誰もが想定していなかった現象が起きた。
起死回生の一撃に賭け、繰り出した瀕死の攻撃が、第一騎士団の至近距離で暴発。それは誰一人意識していなかった、隕石帯の周回速度の相違によって引き起こされた断絶の修復であった。
いつの間にかすぐ近くにまで迫ってきていた、艦と同等の質量を持つ隕石に攻撃が命中し、目の前で破壊された隕石が無数の刃となって艦に襲い掛かったのであった。
一縷の望みを託した最後の攻撃すら暴発に終わり、第一騎士団は壊滅に瀕していた。当初は必勝の祈念をもって出陣した<Taureau d'or>騎士団であったものの、最早今は見る影すらない。
だがその幻想を見ている者は、<Taureau d'or>と<Dragon d'argent>の者たちだけであった。
マティルデは事前にセヴランに左右に展開させた伏兵の存在と到達想定時刻を連絡、セヴランはマティルデからの援護が到着するまでの間、隕石帯の断絶部分を破られぬようにしさえすればよかったのだ。
それ故、異常なまでの密度で展開された結界群が出現したのであり、セヴラン・マティルデの混成部隊にしてみれば、この勝利は当然の結果と言えた。
この戦闘により、第一騎士団の所属艦船数は当初の三百七十から六十九までに減少。部隊編成の下限を超えたことにより、第一騎士団は事実上の消失を強いられることになった。
まさに大勝利というべき祝杯に酔い痴れていた、まさにそのとき。
誰もが考えもしなかった内容の通信が、クレーメンスよりマティルデに向けて、送信されていたのだった。