間章ⅩⅩⅩⅤ<奈落への階梯>
どこか遠くで嵐が暴れ狂っているような、常軌を逸した風鳴りが微かに聞こえてくる。
時にそれは高く、低く、聞く者の精神を掻き乱す。そんな夜には、人々は重く鉄扉を閉め、気象結界と同等の効力を持つ都市部の外殻の持つ護りの中で、不安な一夜を過ごすのだ。
いかに科学が、魔術学が発達しようとも、どうにもならぬ、力の限界。科学の進歩により、量がすると思われていた未来は、しかし己の力と叡智の限界を逆に思い知らされることとなった。
「全くの誤算だな」
黒き革を身に纏う、若き剱士は小さく呟いた。
一切の光を退ける闇。その中枢に、彼はいた。視覚さえも否定し、そして盲目であることを錯覚させるほどの完璧な闇。光というものが存在しない世界であれば、人間の視覚は役には立たない。
何故ならば、人間の網膜は光という刺激があってはじめて、結像するものであるのだから。
だが不思議なことに、闇の中に浮かび上がる二つの人影があった。
「誤算は二つ」
卵の殻のような台座に坐した翁は、まるで屑篭の中にある油紙のようにしわがれた両の指を組み、唇を動かした。
「L.E.G.I.O.N.を名乗る十二の霊将が、いとも簡単にシャトーを見限ったことね」
貴族の娘のようなドレスを身に纏う少女は、感情を胸の底に押し殺したような、能面のような無表情だ。
「それもある」
青年は腰に吊った剱を鳴らし、一歩を踏み出す。
闇色の足場は、その一歩をしっかりと受け止めた。
そして次の瞬間。三人の居合わせる直下から、紫色の光がまるで間欠泉のように吹き上がった。
「だが最も恐ろしいのは、霊将らだけでも、写本の一つを手なづけたという事実」
「それは既に、式神や使役霊の眷属の実力を遥かに凌駕しています」
「然様、然様」
足下に浮かび上がったのは、古き世界に多く創られたとされている、尖塔を無数に持つ王城。
まるで岩山に聳える砦のように、それは不吉な光の中、静かにその姿を晒していた。
「推測の域ではあるが」
青年は腕を組み、瞼を閉ざす。
「写本に干渉する、数体の霊将の呪力は、失われた四人の夢幻王にも匹敵すると思われる」
「莫迦な」
狼狽した声色を震わせたのは翁。
「夢幻王を生み出したのは、邪神としての暗黒面……人の身で、神にも並ぶだけの霊体を創造できるはずが」
「問題はそうじゃないと思うんだけど」
不機嫌そうな声で、少女が口を挟む。
「できるはずがない、って言ったって……現実にL.E.G.I.O.N.は写本を手なづけ、結びつけたのよ」
「最早、猶予はない」
青年は瞳を閉ざしたまま、二人に背を向けた。
「事後処理は頼む。 俺は……神都の護りを強化することにしよう」
「賢明な選択ね」
少女の声は、低く、重く、そして悲痛な韻律をしていた。
「だけど、残念なことに……神術師の思惑は失われ、そして写本は統合されるでしょうね」
最後の言葉は、まるで死刑を罪人に告げる裁判官のように、破滅を生み出す宣告のように、割れた鐘の音に似た響きをしていた。