第三十五章第二節<Variant Giant>
何が起きたのか、居並ぶ者たちの脳は一瞬、思考を放棄していた。
それは、これまでの外界認知の基準、すなわち各人の持つ常識を遥かに逸脱した光景であったからだ。
戦場にて銃弾を放ち、艦隊を組織し、刃を交える者たちの有する常識とは、常人の持つそれと大きく異なる場合が多い。だからこそ、通常であれば目を背けたくなるような惨状にも怯むことなく戦いを続けることが出来、また己の命を守るためなら非人道的ともいえる行動を選択することすらありうる。
愚かな心理学者は、それを犯罪者のそれと同義として語ることもあり、また反戦論者の格好の標的ともされることもある。
だが、戦場に生きる者たちにとってみれば、それは生きるために身につけた技術なのである。職人が技を、企業に勤務する者が交渉を次第に巧みにしていくが如く、彼等はただ生きるために、自らの常識の範疇を大きく変革させることを余儀なくされたのであった。
そうした、戦うために生れ落ちたが如き、戦場における熟練者をして、圧倒させる光景とは、どれほどのものであったろうか。
杯を掲げる少女が、十文字に切り裂かれた。その光景が、常識を纏った精神が正確に受け止めることができた最後の映像であった。
脊髄に頚骨といった主要骨格、並びに胸部を基点とした呼吸器系、循環器系の内臓破壊。およそ生命を保っていられる裂傷ではない、まさに命に至るほどの深い絶望が、少女に刻まれる。
頭上の空間に転移をしたかとも思しき高速移動と時間差の突進剱技を繰り出した二人の白仙の手にも、確かに肉と骨を裂き砕いた手ごたえはあった。
それなのに。
ぐらりと傾いだだけで、倒れ伏すことを拒んだ少女の眼窩が、まるで腐乱死体のように落ち窪んだ。
唐突に生じた、双つの陰き孔から溢れ滴るのは、死者の蠢く深遠を錬金術師が蒸留したかのような、濃密な黒。大地の底に幾重にも重なる重い鎖で戒められた、亡者の恐ろしい怨嗟の嘆きが漏れてくるかと思えるほどに、少女は口腔を開け放ち。
さらに大量の漆黒が溢れ、全身を覆い尽くす。それが、最早正常な状態ではないことくらい、誰の目にも明らかであった。
少女の出現と同時に向けられたメッセージでは、これは戦の試練であったはずだ。人ではない、擬似存在としての少女を倒すことが、この世界において彼等に課せられた試練であった。とすれば、白仙の太刀筋を受け、そして明らかに生命活動の存続が不可能なほどの損傷を受けた少女は敗北と見做され、彼等の勝利と判定されてしかるべき状況であったはずだ。
桜幻春暁は畳み掛けるように剱撃を繰り出そうと身を乗り出したところで、胸の前に手が差し出され、動きを止められる。
制止したのはニーナであった。
「待ちな」
「……恐らく訪れる、唯一のチャンスかもしれないんだけど」
「どうしてもっていうんなら止めはしないさ」
ニーナは右手を下ろし、そして少女だったものを見据えながら呟いた。
「あんたにも分かるだろ、あの多重展開された結界のド真ん中に突っ込んでいく気があるなら……切り込み隊長は譲ってやるよ」
霊的強化されたニーナの視力によって、少女を包み込む積層形式の結界が視覚映像として認識されていた。通常の結界とは違い、一つ一つの強度を弱く設定して重ねることによって、強力な攻撃干渉にも耐え得るような設計であった。
単一の、しかし強度の高い結界であれば、強度以下の攻撃に対しては完璧な防禦力を誇ることができる。しかし、ひとたび防禦力を上回る負荷がかかった際には、緊急防衛手段を取れずして、無防備な姿を晒すことになってしまう。
その欠点を補う形が、少女の纏う積層結界であった。一枚ずつの結界強度は大きく減退してはいるが、あらかじめ破られることを想定して重ねられた結界なのであった。攻撃負荷は結界の破壊と共に加速度的に減耗し、最終的には攻撃が自然消滅するほどの物量作戦を利用した構造であった。
如何に白仙といえど、あの積層結界を悉く破り散らすのには時間がかかる。
その間、本体である少女に対しては全くの無防備となるため、危険が大きすぎるとニーナは判断したのであった。
見れば、少女だったものは今や、以前の身長を倍にするかのごとき成長を見せていた。まるで修道士のような、フードを目深にかぶった巨人のような体躯。両手のように迫り出したそれは異様に長く、そしてまた掌は大きく落ち窪んで闇色の液体を湛えている。
影法師のように伸び上がった、異様な痩身をした黒い人型は、やがて口元に不気味な笑みを浮かべつつ、こちらを睥睨する。爬虫類を思わせる、膨らんだ先端をした指を広げると、その中央からどろりと漆黒の雫が頭上から降り注いでくる。
「……散るよッ」
ニーナの号令によって、六人が一斉にその場から放射線上に疾走を開始。落下してくる漆黒の粘液の速度は、彼等の移動速度からすればあまりに遅い。
そのような攻撃など、みすみす隙を晒すだけのこと。高速移動中にも攻撃態勢を崩さなかった桜幻春暁は、左足一本で疾走速度を殺し、反転して攻撃に転じようと振り返る。
舞い散る桜の花弁のように、いかなる攻撃においても彼の姿を捉えることは難しいが、ひとたび牙を剥いたその太刀からは壮絶な殺気が立ち上る。
だが、彼は眼前の光景に一瞬、動きを止めた。隙だらけの、漆黒の巨人が放つ闇色の雫に触れた大地が、ぐんと沈み込んだのだ。
まるで飴のように、岩盤が柔らかく沈み込み、奇怪な曲線をもって陥没していく。これこそが、あの攻撃の真の意味であったのか。攻撃速度こそ遅いが、一端放たれた雫は広範囲にわたって足場を崩壊させる。
「……やるね」
撓めた足をそのままに、桜幻春暁は高く頭上へと跳躍した。
狙うは巨人の頭部。恐ろしく長い手足の間合いこそ広いが、動きは鈍重以外の何者でもない。Chevalierの肉体能力にも匹敵するSchwert・Meisterの速度をもってすれば、あのような巨人などただの木偶であった。
いまだ手を差し伸べる巨人の肘の関節に相当する部位に着地し、蹴り上がると同時に足場だったそれに斬撃を放つ。骨格というものが存在せぬ異形の巨人の腕は、研ぎ澄まされた戦意の前に、成す術もなく切断される。
だがその攻撃で巨人が怯むことはなかった。痛覚というものを感じていないのか、母体から切断された腕自体が急速に輪郭を失い、大地と接触するや否や先刻の雫を上回る速度で溶解をはじめる。
「不用意に斬るなッ」
飛び上がる桜幻春暁に警告を発し、フェイズはジェルバールの元を離れると攻撃に参加。防戦を続けるよりも、連撃を仕掛けることで一刻も早く巨人を仕留めたほうが総合的な危険度は低いと判断。
前回の戦闘で、この相手に幻術は通じないことが分かっている。
だとすれば、怒涛の剱撃を仕掛けることで、攻撃行動自体を封印することも出来るだろう。
疾走と同時にフェイズは自らの剱の腹に指を当て、勢いよく振り抜くことで傷を生む。刀身に塗られた鮮血を吸い込み、フェイズの剱がさらに伸長する。
剃刀のごとき切れ味を持つ愛剱は、およそ三メートルほどに成長。倍近い全長変化にも、フェイズはバランスを崩すことなく間合いを詰め、柄に至るまで巨人の胴に剱を突き立てた。
一瞬の手ごたえがあり、続いて水風船を貫くような感触。
刀身を伝い、闇がこちら側へと浸食を始める。
この場に留まるのは得策ではない。直感で悟ったフェイズは、突き出た柄に右の手刀を叩き込み、柄に至るまでを巨人の体内に埋没させる。
否、剱は愚か、己の手首までをも巨人の中へともぐらせている。ちりちりと肌を焼く痛みと共に、急速に体熱が吸収されていくのを感じる。
右手を埋め込んだまま、フェイズは大地を蹴り付けて移動。体内にある柄を握り、そのまま背面へと擦過しつつ剱を振り抜いた。闇の雫を空中に飛散させつつ一閃するフェイズの太刀筋と交錯するように、脳天の上に移動していた流水月天の気の刃が直下へと振り下ろされる。
頭頂部から会陰部に至るまでの正中線をなぞるが如きの斬撃。
その一つ一つがまさに生物であれば致命傷となりえるもの。
僅かに遅れ、頭上に達していた桜幻春暁が太刀の刃に匹敵する殺意を封じた気を解放。
不可視の刃は太刀を離れ、まるで降り注ぐ断頭台のように、巨人の躰を寸断していく。
全身に余すところなく攻撃を受けた巨人の動きが、止まる。
だがそれは次なる変化の予兆でしかない。これまでの攻撃パターンからすると、巨人は恐らく全身の闇を解放し、この場に巨大な孔を開けることだろう。しかし、その後は。
完璧に実体を失った巨人がその後、如何なる攻撃に転ずるのか、と思考を巡らせた瞬間。
巨人の周囲の空間において、呪が練り上げられていく。太刀による直線攻撃ではなし得ない、面の攻撃。
「……ありがとうございます」
フィオラが組んだ印は、十二天の一つ、火天の印。
左の掌を上に向け、右の親指と人差し指で円を象る印を結び、真言を詠唱。
「南莫 三満多没駄南 阿我那曳 娑縛訶」
視界に紅蓮の霊気が満ちる。
そして次の瞬間、足下から吹き上がる炎の柱に巨人は包まれていた。高速回転し、周囲の空気を自らの熱が生み出す上昇気流によって吸引し、酸素を吸収することで成長していく業火。その中央に囚われた巨人は、瞬時に数千度にも達する天部の生み出す炎によって、成す術もなく滅ぼされていく。
圧倒的な破壊を象徴する熱と光の中で、黒い影が死の舞踏を狂い踊る最中、炎は出現と同様、瞬時に消滅。消え去ったあとには、最早原型を留めぬ巨人だった闇色の粘液が、嫌な臭気を上げてくすぶっているだけであった。
「……あたしの出番がなかったのが、ちと悔しいけどねぇ……あれだけあった霊気がすっかり消えちまってるよ」
強化視覚を持つニーナが周囲の呪力濃度を観測。
全員が肩の力を抜いた瞬間、くすぶり続けるその中央で、泡が弾けた。その中から淡く優しい光が生まれ、そしてそれはゆっくりと浮上を始める。
全員が見守る中、それは目線の高度にまで到達すると、まるで何かを待っているかのように、空中で静止した。白い光を宿す、握りこぶし大の宝玉。
「これが、鍵……か?」
最も近くにいたフェイズがそれに手を伸ばす。
指先が光に触れ、その宝玉の重みを感じると思われた瞬間。まるで宝珠に力を吸い取られるように、全員の意識が断絶した。
最初に感じたのは、視界が真っ暗であるということだった。
意識の覚醒と同時に、人間は反射的に瞼を開く。視覚に情報把握能力の大半を依存した生き物の、本能とも言うべき行動である。だがそれによって、自分がいつの間にか瞼を閉じ、俯いているのだという状態を認識した。
津波のように飛び込んでくる聴覚、触覚、視覚刺激。一瞬前までいた場所とは全く違う環境に、クレーメンスの意識は刹那、混濁した。
しかし、今度は見知らぬ場所ではない。
クレーメンスの座っている場所は、他ならぬブリッジの指揮官の椅子であった。
顔を挙げ、辺りを見回すと、操縦士たちが忙しそうに駆け回り、各種計測機器、通信機器、呪式機器と格闘を続けていた。
何が起きたというのか。今までのあの体験は、全て夢であったというのか。
クレーメンスは確かめるように、右の掌を見つめ、そしてゆっくりと五指を握ってみせる。
霊力を収斂させたときに生じる、ちりちりとした痛みは、いまだクレーメンスの皮膚をかすかに苛んでいる。とすれば、あのとき、猛禽のような異形に変化した青年を打ち倒した戦闘は現実のものだったのだろうか。
ぐずぐずに溶けた黒い単細胞生物のようになった中から生まれた光る宝珠を、ラーシェンが受け取ったのは果たして現実なのだろうか。
そこまで考えた時、クレーメンスのもとに一人の操縦士が足早に駆け寄ってきた。
「……どうした」
気配を察し、混乱した様子を悟られないようにこちらから呼びかけるクレーメンス。
だが操縦士は緊張した面持ちで、一枚の通信紙を差し出すのみであった。バインダーに綴じられたそれに目を通すクレーメンスの顔色が変わる。
「……三分前に、その通信を受信致しました……どうしましょう……」
それは、隕石環帯に残った艦隊と、二つの移動要塞が戦闘を開始したことを告げる文面であった。