第三十四章第三節<Two Heroes>
聖教典の結界探査プログラムと、監視艦バロールの広域結界。
その双方から発信された警戒信号が全艦の緊急非常態勢を呼び覚ましたのは、まさに晴天の霹靂であった。
現在距離十七万キロメートル遠方より、接近中の信号あり。
質量甚大故に観測上限突破、計測不能。接近物体は総計二体。その連絡は、各師団長、騎士団元帥、大将を緊張させるにあまりあるものであった。
しかし、それぞれに統率が行き届いた師団、騎士団は目だった混乱もなく、着々とそして迅速に、出撃態勢を進めていく。最初の警戒信号より十五分後、今度は警戒態勢を最上位のもの、つまり臨戦態勢に移行する決定が成された。
接近中の物体が、移動要塞<ユグドラシル>並びに<天鳥船神>であることが、判明したからであった。
「やはり、というべきか……」
勢いよく溢れる冷たい水を手で掬い、顔を洗う。
清涼な感覚が火照った肌を引き締め、そして疲労と過労に熱を持った頭脳をも冷やしてくれる。顎から雫を落とし、天叢雲剱師団長ジークルドは清潔なタオルで顔を拭う。
鏡の中から向かい合うもう一人の自分は、やはり疲れの色は隠せない。このところの連日の激務は、元々精力的に師団を統率し、またその他の研修や会議などの雑務に至るまで、完璧主義なほどの緻密さでこなしていたジークルドでさえも、憔悴させるほどのものであった。
食事の時間は愚か満足に眠ることも出来ず、果てることのない仕事に追われ続け。
しかしその分、体調管理には恐ろしく気を遣った。数少ない食事には栄養のバランスを計算し、また眠る時間すらないと言いつつも最低九十分の休息は摂るようにしている。そのせいか、疲れていないはずはないにもかかわらず、倒れるほどに調子を崩すことはなかった。
ジークルドは自室に戻ると、壁にかけてあった軍服の上着に袖を通す。顔を洗い、髭を剃り、そして糊のかかったシャツを身に纏うことで、ジークルドの精神は励起していく。
卓上に置かれた携帯式の通信端末を手に取り、ジークルドは廊下に続くドアを開けた。
人の気配はなかったが、それでも艦全体を包む慌しい空気というものは感じられた。空気を通して伝わってくる、音なきざわめきのようなものが、必要以上に精神を昂ぶらせていることに気づき、ジークルドは歩調を緩めて昇降機のあるホールに辿り着いた。
無人だとばかり思っていたのだが、そこには先客がいた。ジークルドの足音に気づいたのか、金髪のその男はこちらを振り向き、そして笑顔を浮かべた。
「精が出るな、ジークルド」
その男―<星彩青玉>大将セヴラン・ファインズの目の下には、大きく隈が見て取れた。
やはり、この男もまた、忙殺の日々を送っていたのだ。否、この状況に置いて、ゆっくりと心と体を休められている者など、下士官や兵士にもいようはずがない。下位の者には彼等なりの義務があり、仕事があり、そして責任があるのだ。
「お前も少しは寝たらどうだ」
「眠ったさ」
セヴランは視線を昇降機のパネルへと向けた。ボックスが位置する階層数が数字とアルファベットによって表示されており、その数が次第に小さくなってくる。
「眠れた人間の顔には見えんぞ」
それを聞いたセヴランは、苦笑しつつ火照った頬を撫で上げる。掌には、ざらりとした無精髭の感触があった。
「眠ったんだが……騎士団の奴等と戦ってる夢を見た。俺の艦隊に援護要請が出て、右往左往してる夢さ……起きてみれば、警戒態勢が最上位になってやがる」
肩を竦めて見せるセヴランに、ジークルドは腕を組んだままパネルを見上げた。
「災難だったな」
「まったくだ」
ややあって、昇降機のドアが開き、二人は連れ立って明るいボックスの中へと足を踏み入れる。
空調の効かないその中は、どこか黴臭い、饐えたような匂いのする空間だった。
無機質な白い光が降り注ぐ中、セヴランは溜息をつきながら壁にもたれかかった。その所作に、何処とないぎこちなさを感じ、ジークルドは首だけを捻って声を掛けた。
「……不安か?」
「まあね」
不安ではないといえば嘘になる。それはこれから開始される激戦への不安でもあるし、同時に二つの活動可能領域へと旅立って行った仲間への不安もある。
特に、これまでの資料が圧倒的に乏しい<Binah><Cochma>における調査が如何に危険なものであるか。さしたる確約もなく、そして回廊の転送先が安定しているという保証もなく。もし失敗すれば、永久に回廊外の空間を彷徨うことになるであろうその恐怖は、想像にあまりあるものであった。
「そっちも一人、向かってるだろう……連絡はあったのかい」
「まだだ」
背を向け、ジークルドは低く呟いた。
できることなら、忘れてしまいたかった。連絡がない、ということが何を意味するのかを、考えたくなかったのだ。本当なら、救出隊を今すぐ派遣すべきではないのか。こうしている間にも、彼等は通信ができない状態に陥り、こちらからの救助を待っているのではないのか。
考えれば考えるほど、全ての選択肢に同等の可能性が見出せてきてしまう。だが、そのようなことをしていては、こちらの業務に支障が出てしまう。
背反した思考は、当てのない迷宮となって、ジークルドの胸中を苛み続けていた。
「俺はともかく……辛いのはマティルデのほうだ」
「マティルデ……? あぁ、三人目のリーダーだな?」
「そうだ」
頷き、今度は後ろに振り返り。
「気づいたか? マティルデとクレーメンスの髪の色は、とても珍しい銀色なんだ」
「……兄弟、か」
「いや、正確には……霊性の双子というべきか」
マティルデ・ミーゼズとクレーメンス・ライマン。姓の違うこの二人が双子ということには、恐らくはすぐには理解できないであろう。
事実、二人は父親も母親も異なっていたし、また幼少期を共に過ごした経験すらない。
マティルデには超人的な記憶力があり、またクレーメンスには凄まじい呪力があるという、一般を超越した力を持つ、銀の髪の持ち主であるという共通点しか、二人の間にあるものは見出せなかった。しかしその後の調査により、二人が全く同じ出産時刻であったこと、懐胎から出産に至るまでの母体への反応が酷似していたこと、そして何より、二人の感覚に共有ともいえるべき共鳴現象が頻繁に起きていることにより、受精卵としての共通因子ではなく、存在霊位を共有する双子である、との認識を新たに見出させたことになった。
「……なるほど」
「クレーメンスはまだ死んではいない……マティルデを見る限り、俺はそう思う」
「だといいがな」
目的の階層が近づいてくる。
セヴランは身を起こすと、ジークルドの隣へと歩み寄る。
「……どうした」
「まあな」
ぐっと拳を握り、左手を上げてみせる。
「俺は、掛け値なしで嬉しく思ってるんだ。あんたみたいな男に背中を預けて、戦えるなんてな」
「……確かにな」
ジークルドは、そこでやっと口元に笑みを浮かべ。
持ち上げられた腕に、自分の腕を交差させ。
「同感だ……奴等を岩の迷宮に引きずりこんでやろうじゃないか」
ボックスのドアが開いた。
セヴランとジークルド、二人の英雄は、それぞれの部隊の待つ格納庫への廊下の先に、静かに消えて行った。