第三十四章第二節<Examination>
それは、さながら荒野に屹立する龍神のようであった。
雷鳴が轟く中、湿った風が渦を巻くその中心で、純白のコートを纏った少女は静かに双眸を閉じたまま、瞑想に意識を沈ませていた。
彼女の周囲にだけは、不快な突風が襲い掛かることもないらしく、緩やかな渦の流れに長い髪を弄ばせながら、両手で包み込むように銀の杯を抱え持っている。
ざん、と砂を散らしながら着地したのは、二人の男。
一人は艶やかな髪を揺らし、春霞をそのまま染め抜いたかのような淡い色彩の着流しを纏っていた。
男にしては整った顔立ちをしており、薄い唇は一筆紅を引いたように赤い。腰に佩いているのは一振りの漆塗りの太刀。細い幹の並ぶ竹林の中で群れ遊ぶ雀たちの一瞬を切り取ったその金箔は、それがSchwert・Meisterにのみ扱える至高の剱、太刀であることを現している。
その男の横に立つのは、さらに一回り細い姿をしていた。
肌の白さも目を引くが、さらには彼の髪もまた、一条の曇りすらなく完璧なまでに白い。色素異常かと思われるほどに、彼の髪、肌には生気というものが感じられなかった。
その二人は、どちらもが熟練の腕を有していた。
太刀を持つ者の名を、<白仙>桜幻春暁、白き者の名が<白仙>流水月天。
紅一点である龍牙炎帝を加え、この三人はかつての正宗師団における最上位を占める三人であった。
師団長アンジェリークの位階剥奪に異を唱え、自ら師団を去った三人。
美しき剱技を操り、数多の敵を斬り伏せ、数知れぬ戦場を駆け巡ってもなお、かつての正宗師団の純白の戦闘服には返り血は愚か砂埃一つ、汚れ乱れることはなかった。
彼等を、人は<白仙>と呼んだ。
「破れるか」
「いいや」
桜幻春暁は一度太刀を振り抜くと、流水月天の問いに微笑をもって答えた。
「あの水流の結界は太刀じゃあ破れないよ……見た目以上に厄介だね」
切り裂くことはできる。流れ落ちる水だけではなく、SchwertMeisterの熟練した腕をもってすれば、凄まじい大瀑布をも一刀両断にすることはできるのだ。
だが、流水を自在に操れるという少女の能力がその特性を帳消しにしていた。物体でありながら、流体という特徴を持つ水は、一度斬られたとしても容易に修復ができる。それ故、あの水の障壁を破れたとしても、少女の巡らせた守りを破ったことにはならないのだ。
彼等はもう一つの活動可能領域<Binah>へと転送した実働部隊であった。
フィオラ・マグリエルの呪術知識によって回廊内の謎を見事に解き明かした彼等は、やはり同じような光の奔流に飲まれ、この地へとやってきていた。
<Cochma>と異なるのは、あちらが草原であったのに対し、こちらは砂埃の舞う荒れ地であるということ。実体化していたのFacultriceのフィオラ、<白仙>の流水月天に桜幻春暁、そしてS.A.I.N.T.のニーナとフェイズ、そして皇太子ジェルバール。
「なぁにを休んでるんだい」
一連の攻撃動作を止めた二人の白仙の傍らに進み出たのは、S.A.I.N.T.のニーナ・ジュエルロック。
「それでもあんたたち、Schwert・Meisterかい、情けないねえ」
黒い革手袋から伸びたケーブルを眼帯に接続し、ニーナは口元に快活な笑みを浮かべる。
「何だ、それは」
「王家管理のホストサーバー、Malefique・Archivesへの接続ツールだよ……まぁ、見てな」
ニーナのブーツの周囲で砂埃が舞い上がる。対峙する少女は一度薄く瞼を開け、そして涙を零した。
「……あなたも、戦いを欲するのですね」
「悪いね」
少女の言葉を否定せず、ニーナは生身の右手を前に突き出した。
「戦いはよくない、人殺しは罪だ……そんな生易しい世界なんざ、どこにもないんだよ」
目的は一つ。
<Binah>の守護者を打ち倒し、<Kether>への鍵を手に入れること。それができなければ、自分たちの帰りを待つ彼等に合わせる顔がない。
そしてさらに、また不毛な争いで、天文学的な数の人間の命が散り消えるだろう。
「……行くよ、お嬢ちゃん」
少女の瞳が閉じられた。
それを合図にしたかのように、水流の動きが激しくなる。
眼帯の奥の義眼が点滅する。魔術圧縮文書をワイヤレス接続回線より意識下にダウンロードする。現在、ニーナが保有する記憶領域は666ゼタバイト。魔術文書は単なるテキストデータではなく、それに付随する五芒星浄化儀式、典礼儀式、そして繰り返すたびに膨れ上がる魔力をもデータとして包含している。しかし人間の脳は本来そのような外部記憶装置をはるかに凌駕する領域があることが判明している。現在までにニーナが解放している生体脳領域は96クエクサバイトを誇る。その脳にダウンロードした魔術文書を解凍、展開、実行。
「おお汝、燦然たる天使よ、地に象徴されし濃密なる領域を支配せん者よ、我汝に祈願す、この剱に汝が司る力を授けたまえ、されば我、純粋にして公正たる目的のため、汝に仕えし霊を操らん」
ニーナの唇が蠢き、小声で詠唱を呟く。
通常であれば無意識下の領域に魔術文書を展開、瞑想と酷似した精神波長を利用した高速代理詠唱により魔術を発現させるのだが、今回のニーナは意識の領域にまで魔術文書を引き上げていた。
意識に近づけばそれだけ、通常の精神活動の妨げになることが多い。
そうまでしてニーナが欲する力とは何か。
くん、と腰に吊った剱の柄が独りでに浮き上がった。その反応を見逃さず、ニーナは右手で素早く剱を鞘から引き抜き、そして恐るべき速さで剱を投じた。
一直線に飛来する切っ先を追うように、ニーナは疾走を開始。
大地の霊力を込められた剱は、少女の水流障壁に触れた途端に、水流全体に赤く鈍く脈打つ光を解放する。
はっと頭上を見上げる少女。
「魔術には魔術……行くよ、あんたたち」
突き立ったままの剱の柄を握ると、ニーナはその場で水流の只中に宝瓶宮を現す紋章を刻み込む。
風の宮としての紋章が効力を発揮し、水に込められた魔力を恐るべき勢いで吸収。強制力を失った水が落下するよりも早く、ニーナの背後から影が少女へと間合いを詰める。
漆黒の長衣を纏ったその姿は、同じS.A.I.N.T.フェイズ・ドラートのものであった。
既に右手には抜き身の剱が握られている。
障壁を無効化され、最早防禦手段を持たぬかと思われた少女の顔は、いまだ深い悲しみと憂いに沈んでいる。両手に抱えられた、銀杯の中を覗き込むような形でフェイズは少女と交錯。
その瞬間、彼の瞳は杯へと吸い寄せられていた。
回避行動を取る、もしくは防禦のための新たな魔術を用いる、と踏んでいたフェイズ。
幻覚か、それとも研ぎ澄まされた神経ゆえに知覚したのか。擦れ違う瞬間、少女のふっくらとした唇が囁く声を、フェイズは聞いた。
「……私を、斬れるの」
まるで中空に散る水滴までもが緩慢に動く中、急速に時間の感覚が快復する。それと共に、フェイズの各所の筋肉と神経に伝えられてくる、速度と圧力、負荷が正常なものへと変貌する。
フェイズは擦り抜けざま、少女の腹部に剱を這わせるようにして掻き斬った。これだけの速度と衝撃が伴えば、恐らくは一刀のもとに少女は両断されてしかるべきであった。
だが。
ニーナに水流を無効化され、雷速の動きで間合いを詰められ、それでもなお少女は動揺の色すら見せなかった。
刃が肉を裂くと思えた瞬間、手ごたえが突然に消失する。同時に耳を打つ水音、頬に感じる冷たさ。相手の意識に介入し、幻影を見せることで攻撃効率を飛躍的に高める、自分がもっとも得意とする戦術が、同じ手法の幻影で破られたのだ。
ならば、本体はどこだ。
幻術の基本として、相手の意識が幻に集中してしまえば、本体は無事な間合いから攻撃を仕掛けるのが通例だ。
全身を包む焦燥感。唐突に断絶した気配のため、混乱をきたしたジェルバールの感覚が少女の位置を捕らえられない。
このままでは、やられる。そう感じたときであった。
「……います」
遥か後方より、額に二指を当てたフィオラが呟いた。
「そこより丑寅の方角、鬼門より守護者は狙いを定めました」
「奄 幹資羅 塔羅麻 紇里」
サンスクリット名サハシュラブジャ、和名千手観音の真言を唱えつつ、フィオラは二指で虚空を貫く。空気中に霧状に散布した魔力を帯びた水の微細な粒子によって、光の乱反射を意図的に制御し、転移先の認知を遅らせる少女の術を、フィオラの法力にて看破したのだ。
時を同じくして、飛び散った水は地表に吸い込まれることなく、不思議な動きを見せつつフィオラの指定した方角へと蝟集。
それを確認した二人の白仙の姿が消える。
「……申し訳ありません」
首から上だけを実体化させ、少女はひたとニーナとジェルバールを見つめる。渦を巻き、うねり、脈打ちつつ実体を構成し続ける水は、既に腰までの受肉を終えている。
「貴方たちに、鍵をお渡しすることは」
言葉が途切れた。
位置さえ分かれば、そして護りさえなければ。圧倒的な攻撃力と破壊力を持つSchwertMeisterの二人が、少女の背後で実体化する。
否、残像すら生まぬほどの高速移動を可能とする、恐るべき脚力による移動術か。
「悪いが、鍵はいただく」
「……御免」
剱閃が交錯する。
首筋から骨盤、そして肩から脇腹。斜めに交差する十文字の斬撃が、容赦のない苛烈さで少女を切り裂く。
銀杯を握り締めたまま、ぐらりと傾ぐ少女。瞳から光が散り、そして唇が音なき声を紡ぐ。
勝敗は、決したかに思われた。