第三十四章第一節<Guardian>
「……あなたは誰ですか」
アンジェリークの言葉はラーシェン、セシリア、イルリック、リルヴェラルザの頭上を飛び越えて行った。
さらに後方。つまりそれは、自分たちが来た道の過程であることを意味する。
ここに来るまで、誰にも会わなかった。否、それよりも、意識を取り戻してから今まで、仲間を除く誰の姿や気配をも感じられなかった。
それなのに、今では士気を圧するほどの気迫を、その人影から感じている。
黒く長いコートを羽織った姿をした、一人の青年。首までを覆う薄手のニットのセーターを着込み、革の手袋をした青年は、屈託のない笑顔を浮かべてこちらを見上げている。
心地よい、春を思わせる風が舞い、青年の短く刈った髪を揺らし、コートの裾をはためかせる。指を軽く握りこんだままのその姿勢で、青年はアンジェリークの言葉を受け止め、そして口を開いた。
「ようこそ、叡智の庭園へ……僕はこの地を司る者、名乗る名は持ち合わせてはおりません」
「そうですか」
瞳を閉じたまま、アンジェリークは青年の答えに頷く。
「では、貴方から感じられるその気を鎮めてはいただけませんでしょうか?」
アンジェリークの手は、いまだ腰に吊った太刀から離されてはおらぬ。
天剱の位を持つ、<Dragon d'argent>のSchwert・Meisterが持つとされている太刀の銘は<胡蝶>。
ラーシェンの持つ太刀<雷仙>とあわせ、この場には二本の太刀が集っていることになる。
その太刀のどちらもが、あの青年の放つ闘気に反応していた。
歴代の、そして数多の世界を渡り歩く共通超越存在としての太刀が反応するということは、あの青年の持つ力が外見からは想像もできぬくらいに桁外れであるということを意味していた。
だが、どうして俺たちの前に現れた。あの神殿を守っているのならば、背後から気づかれずに攻撃を仕掛けてくることもできただろうに。
ラーシェンの想像では、あの青年が出現したのは、アンジェリークが気づくよりも前だと判断していた。
こちらの殲滅が目的でないとすれば、あの気の鋭さは何を意味するのか。
「それはできません」
青年はさらに柔和な表情のまま、一歩を踏み出した。
短く悲鳴を上げるイルリックと、その前に立ち塞がるリルヴェラルザ。守るべき主を背に庇ったS.A.I.N.T.の手には、氷の如き冷気を放つ、美しくも壮絶な殺気を凝り固めたような剱が、いつしか握られている。純白の長衣を纏い、そして両目を完全に覆うような仮面を身に着けた、美しき白亜のS.A.I.N.T.。
「この地に来てくださった貴方たちは、<Kether>への鍵を探しているのでしょう?」
「貴様、何者だッ!」
笑顔の仮面を剥がすべく、ラーシェンが物理的な衝撃にも似た高密度の殺気を放つ。
正面から突風のような気の塊を喰らい、青年の上体が僅かに後ろに逸れ。
たったそれだけで、青年は気の激突に耐え抜いていた。
「貴方たちは、智の試練を超え、この地に辿り着いた……次は、戦の試練です」
青年はぱん、と胸の前で手を打ち合わせた。
「姫、こちらへ」
もっとも至近距離にいたリルヴェラルザは、イルリックの腰に腕を回すと、一動作で大きく跳躍して神殿の石段の一番上にまで到達する。白い風が吹き抜けるのと入れ違いに、神殿の中から気配を感じたクレーメンス、龍牙炎帝が姿を現す。
「戦の試練に打ち勝てれば……貴方たちに、<Kether>への扉を開く鍵をお預けします」
ずい、と引かれた青年の掌の間には、一振りの錫杖が現れていた。手品のように無から生じせしめたそれを握り、青年はぐっとこちらに突きつけてくる。
「僕を倒してください。貴方たちへの戦の試練を、始めます」
それまで紺碧だった天空は、一瞬で鈍色の重々しい雲に分厚く覆われてしまっていた。爽やかな午後の風は一転して、身を裂くような冷たく激しいものへと変わっている。
その只中で、コートの裾をはためかせながら、青年は錫を頭上に掲げている。
一見して無防備にも思えるその格好であったが、誰一人攻撃に転ずる者はいない。
いとも簡単に倒せる相手ではないことは分かっている。
これより前、それぞれの攻撃を青年に向かって全員が繰り出していた。単発、複数を絡めたコンビネーションで構成された一連の攻撃に対し、青年はその悉くを完璧に防禦しきって見せたのであった。
ラーシェン、アンジェリークの剱技。龍牙炎帝の焔召喚。リルヴェラルザの幻影を交えた剱。そして、クレーメンスの呪術。
それらを受けてもなお、青年の顔には傷どころか苦悶の皺一つ刻まれることはなかった。身の丈を遥かに越えるだけの長さを持つ錫を軽々と扱い、自らの周囲に巡らせた不可視の障壁を自在に操り、四種類の攻撃全てに対応して見せたのだ。
「どうしましたか」
笑顔を崩さず、青年はとんと地面を錫で突いた。
「遠巻きに見ているだけでは、僕は倒せませんよ」
「うるさいってんだよッ!」
血の気の多い龍牙炎帝が、下生えを散らすほどの跳躍で襲い掛かった。円周形の包囲が崩れたその瞬間、青年の周囲を守る形で光の檻が出現した。
否、それは頭上から降り注ぐ魔力の槍。焔を宿した剱を回転させ、それらを打ち砕きつつ一気に間合いを詰める龍牙炎帝。
「うらあああああッ!!」
「そこまでですね」
さらに数発を弾いた龍牙炎帝は、見事に青年の懐へと飛び込んでいた。青年が呼び出した光の槍の雨は既に尽きている。眼前に迫る炎の女神。護りのための魔術が無効化され、青年には打つ手がないと思われていたにもかかわらず、青年の顔には恐怖がない。
何故、と問う必要はなかった。
龍牙炎帝の正面で、青年は錫をぐっと突きつけていた。あの光の槍は気を逸らすだけの囮であったのか。予備動作を必要とせぬ囮をあらかじめ仕込み、相手が間合いを詰めたと同時に発動させる。
その間、青年は完全に自由となる。錫から放たれるのは、業火か、それとも雷撃か。龍牙炎帝の顔が焦燥と怒りに歪んだその瞬間。
青年の周囲の空間が不自然な角度で歪んだ。
空間転移ではない。距離にして数十メートルを一秒にも満たぬ時間で駆け抜けたラーシェンとアンジェリークが、空間を歪ませるほどの速度で青年の背後に到達、速度慣性を完全に殺しきった恐るべき脚力で跳躍したのだ。
ラーシェンは右、アンジェリークは左。熟練のSchwertMeister二人に隙をつかれ、青年には逃げ場などないと思えた。
しかし、相手に斬られたと認識させる間もないほどの神速の刃は、鈍い音を立てて受け止められた。
青年の頚動脈と肩口から心臓周辺の動脈へ。二条の致死の剱閃は、その道程の半ばほどで行く手を阻まれてしまっていたのだ。
無邪気な笑顔を浮かべる青年は振り向いてすらおらぬ。
だが太刀が止まった周囲の空間には、橙色の暗い光が拡散し、そこには完璧な円と幾何学文様で構成された魔法陣が浮かび上がっていた。
二人の攻撃では、青年の動きを阻止することはできなかった。
前から一人、背後から二人。三人がかりのSchwert・Meisterでさえ突破できぬ護りとは一体どれほどのものか。
とすれば、次なる手は。
「……チィッ!?」
舌打ちを鳴らす龍牙炎帝は、無理やりに身を屈めて足を撓め、全身のばねを使ってその場から頭上へと跳躍した。
光を宿した錫杖からは、一片の容赦もない雷撃が至近距離から放射される。予備動作と、青年の動きの緩慢さがなければ、文字通り光速で放たれる雷撃からは、人の身であれば回避で来うるはずもなかった。
錫杖を突き出したままの青年は、くるくると巨大なそれを回転させ、とんと傍らに引き寄せる。
「……さて、それではこれからが問題ですね」
風が螺旋を巻く。その中央で青年は微笑み、そして唇の間から漏れ出でる呪力が風に乗り、さらに渦を強く、大きくさせていく。
青年への直接攻撃を仕掛けるには、あの絶対防禦を破らねばならない。
とはいえ、攻撃性能に特化されたSchwertMeisterの神速の刃をも防ぎ、さらに動体視力では捉えることなど到底できぬ速度の移動からの攻撃にも対応できる、あの障壁を破るには如何にすればよいものか。
そしてさらに、これより僅かに数刻前、クレーメンスの魔術攻撃が青年を包み込むも、その効果は十分の一にも満たぬ児戯にも等しきものであった。意識を束縛し、魔術行使の際の瞑想を妨げる神経系統の術は、青年の思考を一秒も停止させることはできなかった。
武具、魔力の双方に有効な攻撃手段を見出せぬとあって、彼等に打つ手立てはあるのか。
その中でアンジェリークだけが、一つの可能性を見出していた。
あの青年を取り巻く気の流れには乱れは愚か、一切の隙がない。およそ人ならざる者、というわけか。生身の人間であれば、仮に信じられぬほどの鍛錬を積み、特殊な時空軸の中で本来の寿命を遥かに超える時間を生きているとしても、感情の乱れはあるはずだ。それが、あの青年にはない。
あの青年は戦の試練と言った。となれば、正攻法ではあの青年を打ち崩すことはできぬのではないか。虚を突き、連携の攻撃を叩き込むよりも、何か別の策を講じねばならぬのではないか。
非戦闘員のセシリア、イルリックが石段の上より見守る中。
しゃらん、と氷の鎖を打ち振るうような音を立てて、リルヴェラルザが一歩前に踏み出てきた。
「今一度、手合わせを願いたい」
白い仮面の下で、リルヴェラルザの鷹のような瞳が青年を見据える。
「よろしいですよ、王家の守護者」
踵を返した青年は、リルヴェラルザの申し出に、恭しく一礼を返した。