第三十三章第二節<The Temple>
最初の感覚は、頬に強く押し当てられている、湿った草の匂いであった。
嗅覚と触覚が快復しても、いまだ脳は覚醒しきっていないらしい。思考はやや働くのにもかかわらず、躰が全く動かぬという、奇妙な感覚にラーシェンは囚われていた。
瞼は閉じたまま、四肢もぴくりとも動かせず、盲いた者のように暗がりで彷徨いながら自分の置かれている状況を把握するしかない。
しかし、ラーシェンはそれが一時的なものであることを知っていた。
焦ることなく、ゆっくりと呼吸をしながら、脳の覚醒を待つ。次第に明瞭になる意識。ゆっくりと瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは鮮烈なる緑。
そこでやっと、自分が草むらの中で倒れているのだということを認識する。
周囲の気配に不穏なものはない。無理に動かさず、ゆっくりと寝返りを打ち、手をついて上体を起こす。
俺は、一体どこにいるのだ。つい先刻まで、俺は戦艦のブリッジにいたはずだ。
回廊を進み、謎の声にクレーメンスが答えたところまでは覚えている。そして、操縦士が異常を訴え、そして光が迫ってきて。
まさか、撃墜されたとでも言うのか。
いや、だとすれば、ここは何処だ。見回せば、倒れているのは自分ひとりではなかった。
すぐ近くに倒れているセシリアを発見し、ラーシェンはその細い肩に手を置いて名を呼んだ。幾度目かで意識を取り戻したセシリアは、黄金色の髪を揺らしながら苦しげに寝返りを打ち、そしてうっすらと目を開ける。
「……あ……」
セシリアの唇から漏れてきた微かな声に、ラーシェンの表情が心なしか柔らかくなる。
「起きられるか」
動こうとするセシリアの背中に手を当て、ゆっくりと抱え起こす。そしてセシリアの瞳にもまた、ラーシェンが先刻に感じたものと同じ困惑の色を見出すことが出来た。
「ここは……」
「分からん」
ラーシェンは立ち上がると、周囲を見回してみる。
なだらかに続く丘陵地帯、その地平線が雲間に見える。遮蔽物は、ほぼ無きに等しい。ここから百メートルほど歩いた先に、かなり大きな神殿が見える。
だが、これだけの距離を隔てても、神殿が現在は使われてはいないだろうということは想像ができた。
そのとき、ラーシェンはこちらに歩いてくる人影を見た。銀髪を風に揺らしながらこちらに向かってくるカーキ色の軍服姿の男は、紛れもないクレーメンスであった。
「よお」
手を挙げるクレーメンスに、ラーシェンは厳しい顔のまま尋ねた。
「どういうことだ」
「それが分かってりゃ苦労はしねえ」
腕を組み、苦笑するクレーメンス。
「今わかってんのは、この場所にいるのは俺を入れて七人だ。皇女イルリック、S.A.I.N.T.リルヴェラルザ、師団長アンジェリーク、<白仙>龍牙炎帝、それに俺たちだ」
イルリックは、いまだ草むらの中で倒れている。姿は見えないが、どこかに必ずS.A.I.N.T.は付き添い、侍っているはずだ。
「アンジェリークたちは何処にいる」
「あの遺跡を見てる最中だ」
遺跡。その言葉がクレーメンスの口から出たということは、そこに人間の文明の気配があるということだ。
「行ってみるか?」
親指で神殿の遺跡を指し示すクレーメンスに、二人は首肯しかけたが。
いまだ意識を取り戻さないイルリックをそのままにしておくというのは、さすがにできないことだ。
「……いるなら返事をくれ、リルヴェラルザ」
「我が主のことなら心配はいりません」
何処からか、鈴のように響く声がする。
「どうぞ、お行きになって下さい……我が主がお目覚めになりましたら、すぐに追いつきます」
リルヴェラルザの言葉を受け、ラーシェン、セシリア、クレーメンスは遺跡へと向かった。
程なく、朽ちかけた巨大な神殿が目の前に立ち塞がる頃になると、その傍らに佇む二人の人影が見えてきた。
そのうちの一人を見た瞬間、ラーシェンの全身に電流のような緊張が走り抜けた。
同じ技を修めながら、これほどまでに衝撃を受ける相手に出会ったのは、初めてであった。
無論、Schwert・Meisterの数はそう多くはない。よって、Schwert・Meister同士での戦いというものが起きる確率自体が低い。
そこから考えれば、対Schwert・Meister戦の経験がないことから生じる武者震いではないか、と考えることも出来た。
しかし、根本的なものが違う。
間違いなく、天剱の称号を持つアンジェリーク・カスガは、ラーシェン・スライアーを遥かに凌ぐ力量を有している。
だがそれだけではない。決して修行や鍛錬では埋めようもない、大きな溝が互いの間にはある、そう感じられるのだ。
「目が覚めましたか」
アンジェリークはこちらを振り向き、そして一礼した。
「我が名はアンジェリーク・カスガ、そしてこちらは私の友人、龍牙炎帝……いずれも不肖ながら、同行させていただきます」
そのとき、ラーシェンは理解した。アンジェリークの双眸から、光が失われているのだということを。
彼女は、肉体的なハンディキャップに屈することなく、より高きを目指すだけの強靭な精神力を身に着けているということだ。
視覚の喪失という短所は、武芸にとっては致命的なものではないのだ。手足、そして筋肉、神経系統の障害であればまだしも、周囲の認識を視覚に頼っているようではまだまだ中級者ということであろうか。
それ故、アンジェリークはSchwert・Meisterを極めた。否、極めざるを得なかったというほうが正しいか。
何故ならば、常人であれば普通に用いることのできる映像把握が不可能なアンジェリークが、互角に相手と渡り合おうとするには、他の感覚器官をさらに研ぎ澄ますことでしか追いつくことはできないのだから。聴覚、嗅覚、触覚、そうした感覚を総動員することによって、アンジェリークは視覚を有する者をも越えるだけの空間把握能力を身に着けることができた。
視覚を持つ者が周りを見ようとすれば、自然と躰を回転させなければならない。
人間の持つ視覚のうち、認知が可能な角度はせいぜいが100度前後。360度の全範囲を把握しようとすれば、後ろを振り向くことも必要になる。
だが視覚によるところのないアンジェリークは、その場にいながらにして、そして動くことなく背後の様子をも手に取るように分かるのだ。
それは、当人の努力だけではどうしようもない、天性の勘とも言える何かが関与していたのかもしれない。
いずれにせよ、アンジェリークの強さの秘訣はそこにあった。
「なんか分かったのかい」
射竦められたラーシェンとセシリアの傍らを摺り抜け、クレーメンスは罅割れた石段を登っていく。
「奇妙な石板があるだけだ。それ以外には何にもねえ」
吐き捨てるように説明する龍牙炎帝に導かれ、クレーメンスはその石板を確かめるべく、神殿の中へと入っていく。
取り残されたラーシェンとセシリアは、自ずとアンジェリークと向かい合う形になる。
「……そのように、構えずともよいでしょう……黒きSchwertMeister」
アンジェリークに指摘され、ラーシェンははたと気づいた。
知らずのうちに、身を護らなければという認識によって、躰を緊張させてしまっていた。そして同時に、相手を威圧するだけの気迫を、周囲に放っていたのであろう。
とすれば、先刻まで感じていたプレッシャーは、もともとが自分の放っていたものだということか。息を吸い込みつつ殺気を消すと、両肩を力強く押さえ込もうとしているかのような気が、嘘のように掻き消えた。
「ありがとうございます、これでやっと……ああ、白き姫もいらっしゃったようですね」
唇だけで微笑み、アンジェリークは顔を天に向けた。
振り向けばイルリック・ブルーアヴローとその守護者のS.A.I.N.T..、リルヴェラルザ・スワローゾもまた、石段の麓まで来ていた。
「あなたたちの来殿を感謝いたします……どうぞ、必勝のための……」
言葉が途切れた。
何故、という必要はなかった。ラーシェンの右手が、頭で考えるよりも早く、動く。腰に吊った<雷仙>の柄に伸び、アンジェリークもまた戦闘態勢に入っていた。
「……あなたは、誰ですか」
激情を押し殺した抑揚のない声で、アンジェリークはイルリックのさらに背後に、そう問いかけた。