第三十三章第一節<Riddle of secret>
ヘー回廊転送より七分後。
モニターから送られてくる艦隊周辺の光景は、それまでの活動可能領域を結ぶそれぞれの回廊と何等変わることなく、凄まじい光を発しつつも円筒状の空間を維持しながら続いていた。
しかし安心は出来ない。これがいつ何時、変貌の兆しを見せるかは分からないのだ。
師団長であったクレーメンスの指示により、操縦士らは忙しくブリッジの中を駆け回っている。航行速度を最低限にまで落とし、何か不測の事態が起きた時にはすぐに対処できるように準備を整え。周囲の光の壁を構成する魔力濃度を一秒間に三十回の高速観測を行い、変調の予兆を見逃さないようにし。
そして、万が一の事態に備え、攻撃システム管理プログラムを常駐させ、さらに各セクションに人員を配備し、目視による警戒態勢を行い。
それら全ての監視において、変化は今のところはなかった。
駆け巡る操縦士らの中で、後方に位置するブリッジとメインフロアを繋ぐドアの傍らに、剱を抱くようにして座る一人の女がいた。
緋色の衣を纏い、漆黒の髪を高い位置で乱暴に結っている。大きく開いた胸元からは豊かな乳房が見えているが、戦闘時に邪魔にならぬよう、きつく布を巻いて固定してあるようだ。
名は、龍牙炎帝。アンジェリーク直属の特務部隊<白仙>に名を連ねる、選り抜きのSchwert・Meisterの一人であった。
眠るように蹲ったままであり、間近を慌しく操縦士らが足音高く駆け抜けたとしても顔を上げることすらない。右腕の肘の部分に太刀を模した武器を抱え、膝を抱くようにして背を丸めている。
さながら手負いの動物のような格好であったが、それを見たクレーメンスは驚きの色を隠せなかった。
彼自身、<白仙>の姿を見るのははじめてであった。戦場を駆け抜け、己もまた類稀なるFaculteurでありながら、アンジェリークと同じ戦場にて敵を退けた経験はいまだなかった。
それ故か、常より隠密として行動し、主に危険が及び、また主より命があった場合を除き、決して人前に姿を見せぬといわれていた<白仙>が、こうして目の前にいるというのは実に奇妙な光景であった。
聞けば、演習襲撃時にマティルデ艦隊において、同乗していた正宗師団らに対し、それまで誰一人に気取られることもなく、完璧な隠行をやってのけた<白仙>がいるというではないか。
ああしている以上は一介の剱士と何等変わらぬが、あの躰に秘められた能力には恐らく、目を見張るものがあるのであろう。
「……クレーメンス様?」
間近で名を呼ばれ、クレーメンスはようやく現実へと戻ってきた。
「……すまん、ちっと考え事をな」
ばつが悪そうに頭を掻きながら、クレーメンスは部下のほうを振り向いた。
「どうかこの任務が終わりましたら、ごゆっくりお休みください」
部下が差し出してきた監視結果にチェックを入れ、これまで通りの数値であることを確認する。
「ご苦労だったな」
「ありがとうございます、私はまたてっきり……艦内に霊体か何かが入り込んでいるのかと思いまして……」
その言葉に、クレーメンスは眉をしかめる。
「……今、なんつった?」
だが、部下はその言葉をクレーメンスの怒気と捉えたようであった。即座に直立の姿勢を取り、指先に至るまで完璧な敬礼に身を固める。
「申し訳ございませんッ、出過ぎたことを申し上げてしまいましたッ」
「そうじゃねえ、俺はてめえに怒ってるわけじゃねえっつんだ」
肩を叩き、クレーメンスはドアの傍らにいる龍牙炎帝を顎で指した。
「俺は奴を見てたんだ。今まで一度も姿を現したことのねえ……」
今度は、部下が訝しむ表情に困惑する番であった。
「奴……と、申しますと」
チェックリストを受け取ったままの姿勢で、部下は怪訝そうな顔でクレーメンスを見つめている。
「……いや、なんでもねえ……手間取らしたな」
「では、私はこれで」
一礼し、立ち去っていく部下の背中を見つめるクレーメンス。
納得がいかず、もう一度ドアの方角に目を向けた。案の定、そこには女の姿があった。だが先刻と違うのは、顔を上げてこちらをじっと見据えているというところである。
「無駄だ」
唇を動かした様子もないにもかかわらず、クレーメンスの感覚には女の言葉が滑り込んできていた。
「こいつらに、俺の姿は見えん」
その言葉によって、クレーメンスは全てを理解した。
気配を断ち、また任意の相手にのみ姿を認めさせる隠形の術。否、彼女が本気になれば、クレーメンスの知覚ですらも位置を捉えられぬだけの完璧な技となるのかもしれぬ。
それほどの腕を持つ者が、現正宗師団長セクト・ハーレィフォンを唾棄し、全師団長に追従したという話もこれなら納得がいく。
何故なら、セクトが正宗師団長に抜擢された理由は、彼の武勲ではなく、大型移動要塞<天鳥船神>の建造であったからだ。
ここから返事をしても、部下からはまた先刻と同じような怪訝な視線を浴びることになる。クレーメンスは小さく頷き、龍牙炎帝から視線を外し、前方のモニターに向き直った、そのときであった。
<汝、如何なる道を選びしや>
出しぬけに、意識の中に介入する声があった。男と女、それも年老いた者と年若き者が同時に同じ言葉を口にしているような、歪み重なった響き。
思わず腰を浮かしそうになったクレーメンスは周囲に視線を走らせる。
操縦士たちに目だった動きはない。聞こえたのは俺だけか。そう考えた瞬間、声は今一度響いてきた。
<汝に、四つの導を与えん>
耳の穴に鋭い針を差し込まれたような痛みと共に、声は意識に届く。
「クレーメンス」
緊張した声色で名を呼んだのは、ラーシェンであった。
「今の声はなんだ」
「てめえも聞いたか……おい、観測師! 数値に異常は出てるか!」
「……いえ、今のところ変化はありません、数値誤差、微動範囲内です」
「くそッ……」
だん、と手摺を掌で打ち、クレーメンスは耳に手を当てる。これが、回廊に隠された秘密というわけか。四つの導が何を意味するのか。しばし沈黙を続けたのち、三度声は響いた。
<汝に問う、迷える旅人の前に四人の者が現れたり。一人は桶を洗う青年、一人は衣を漱ぐ少女、一人は顎鬚を蓄えし翁、一人は杖に身を丸めし嫗なり>
「何かの謎かけか」
皆目見当のつかぬという表情のラーシェンに、クレーメンスは指を立てて唇にあて、沈黙を促す。
<迷える旅人が、道を尋ぬるは、果たしてどの導か>
クレーメンスはこめかみに指を当て、思考を巡らせる。
これが、もしかするとヘー回廊の鍵なのかもしれない。
順当な考察ではいけない。四つの導となった、四人の登場人物は恐らくは何かの暗示であろう。
クレーメンスは部下に命じ、これから向かう<Cochma>の象徴する事象のリストを検索させた。象徴神名、大天使の称号、タロットカードとの称号、それらに謎かけの内容と符号するところは見出せない。
しかし、<Cochma>自体の象徴欄を見たクレーメンスの顔色が変わった。
<Cochma>とはカバラ理論では知恵を意味し、また成熟を現す。よって、魔術的照応によれば、髭を蓄えた男性の象徴であるという。
答えは決まった。
肘掛の上で指を組み、クレーメンスはじっと声を待つ。
ひたと正面のモニターに映し出される光の回廊を見つめていたその横で、ふわりと体香が漂う。
見ればいつの間に移動していたのか、龍牙炎帝が歩み寄ってきていた。
「何なんだい、さっきの声は」
「聞こえていたんだな」
「おおよ」
<汝、如何なる導を選びしや>
「俺は翁を選ぼう……顎髭を蓄えた、翁を導とする」
声を知らぬ、他の操縦士には、クレーメンスの言葉は唐突であった。しかも独り言などではなく、凛と響くだけの声量をもって響いたその言葉に、一堂が振り向く。
回廊の映像だけが動く、無音の時間が流れ。
<……よかろう>
声が是と応えた瞬間。
「艦長、回廊構成に異変発生です!」
「前方に高濃度魔力反応……距離不確定、回避できません!」
「このまま進め!」
クレーメンスはぐっと身を乗り出し、操縦士を一喝する。
「このままだ……俺たちはしくじったりはしねえぞ!!」
<汝、叡智の庭園に足を踏み入れることを許す……来たれ、力ある者たちよ>
「正面から魔力塊接近、相対速度、算出できません!」
「接触まで残り……十三秒です!!」
悲痛な叫びを嘲笑うかのごとくに、モニターが光で埋め尽くされる。
そして、クレーメンスは意識を失った。