第三十二章第三節<Realm of Wiseman>
強化水晶窓越しに見る格納庫に、自動操縦によってゆっくりと一隻の戦艦が姿を現した。
八咒鏡師団所属の戦艦<須勢理比売命>。
その船頭部には、高純度でありかつ巨大な水晶結晶体が演算補助として内蔵されたコンピュータがあり、それによって戦術シミュレーションをはじめ、各艦の戦力把握、呪的戦略艦の詠唱速度と呪圏維持効率など、殆どの計算処理を一手に引き受けることのできる特性があった。
その名の示すとおり、父親である須佐之男命から婚儀に際して大国主命へ出された難題の克服に助力したという故事に匹敵するだけの演算能力を持つそれは、同時に呪的戦略艦としての許容量をも食い尽くす膨大な演算プログラムのせいで、戦艦というよりは支援空母という立場に近いものがあった。
<須勢理比売命>の勇姿を見下ろしていたクレーメンスは、やがてくるりと踵を返した。
目の前には、今回の作戦のために編成した兵士らが、寸分の狂いもなく直立不動の姿勢を取っている。
<聖教典>に続く形で隕石群地帯へと向かった各艦隊は、その航路にて<Binah>及び<Cochma>への転送グループの編成に頭を悩ませていた。
当該宙域に関する、有効な情報は今のところ存在しない。
そのため、何が起きるか分からぬその活動可能領域に精鋭部隊を送ることは、二つの理由から却下された。
第一にして最大の理由は、存在が未確認である二つの領域への転送が、非常な危険を伴うことであった。回廊の存在までは確認されてはいるものの、その先に何があるかは全く分からない。加えて、回廊確認の情報が百年以上も前のデータベースであることから、現在もなお安定して存在しているという確約はない。
さらに、後続部隊は迫り来るであろう残存戦力がそれぞれの回廊へと転送することを防がなくてはならない。転送地点は存在するものの、明確な座標ではないために回廊転送を妨害する策は困難を極めたが、彼等とて挟撃の懸念はある。
もし<Tiphreth>に残る戦力を残したまま、回廊に転送するようなことがあれば、行動の自由の利かない回廊内において逃げ場を失うことになるであろうことは火を見るよりも明らかだ。
到達目標領域は二つ、そして<Tiphreth>残留組にも相応の戦力を割かなければならない。選択の余地は限りなく狭く、そして残された時間はあまりにも少なかった。
八咒鏡師団においては、師団長クレーメンス自らが<Cochma>転送組となることを申し出た。
当然部下からは反対の声も上がったが、クレーメンスはそれらを一喝。何がいるかも分からない辺境に、お前ら若造どもを送り出すことはできん、と言い切り、クレーメンスは自分の独断を押し切ったのだった。
今回の<Cochma>グループの艦船は八咒鏡師団のものを使用することが決定していた。
乗務員はクレーメンスを筆頭にした師団員に加え、その隣には黒衣のラーシェンがひっそりと息衝く闇のように控えていた。
「現時点をもって、八咒鏡師団は解体だ。六時間後に俺を入れた<Cochma>突入部隊、そして八時間後に<Binah>、残りの団員は天叢雲剱と八尺瓊勾玉にそれぞれ編入になる」
解体、という言葉は、確実に団員の心を激しく揺さぶった。
現状のままの組織では、今後の激戦に耐えられぬということは理解している。八咒鏡師団という、大きな部隊のままでそれぞれの領域へ転送すれば、後続部隊の陣営が手薄になることも納得できる。
しかし、それらは全て、転送されていった人間が戻ってくれば、無意味なことであるのだ。
つまり、指揮系統をそのままにして、<Binah>及び<Cochma>転送グループがもし命を落とせば、軍隊という組織は混乱をきたす。ピラミッド式構造となった軍隊のシステムが抱える重大にして致命的な問題だ。
それを改善すべく、クレーメンスは再編成という処断を採ったのであった。
すなわち、死を覚悟しろということだ。
だからこそ、団員たちの胸中は穏やかではない。自分が死ぬかもしれないという運命に飛び込んでいくことに、耐えられぬ若い兵士もいる。しかしそれ以上に、傍らの戦友を失うかも知れぬという苦痛のほうが、何倍も強く胸を締め付ける。
「だけどな、もし俺が戻ってこられたら……そのときは、お前たちを二人の部隊からまた引き抜いてやろう」
クレーメンスは最前列で直立する若い兵士の頭を乱暴に撫でる。よろめくほどに強く頭髪をかき回されたにもかかわらず、その兵士は笑みを浮かべていた。
「ジークルドはバカがつくぐらいに生真面目だし、マティルデは男より女のほうを甘くしやがる……そんな部隊にいたいと思うか?」
隊列のあちこちから、笑いが漏れてくる。
「もしこの中に、自分が死んでも任務を果たしてくる、なんて覚悟をもう決めてる奴がいたら手を挙げろ」
クレーメンスは両手を後ろで組みながら、ゆっくりした足取りで往復を繰り返す。
「俺は少なくとも死ぬ気はねえ。俺が戻ってくるのは二つの理由だ。一つはまだ飲み足りねえ酒があること」
クレーメンスは人差し指を高く突き上げる。
「残りの一つは、その酒をてめえらと飲むことだ……わかったなお前ら!」
一瞬の間を置いて、部屋は兵士らの歓声に包まれた。
デーンカルドを発艦した戦艦<石凝姥神>ブリッジ。
信じられない規模の、巨大な環状隕石群の内側に舳先を向けた戦艦の正面には、薙ぎ渡った海原の如くに、障害物は何一つ存在しない。
「<Cochma>転送隊各艦、加速準備に移行してください」
操縦士がオープン回線から呼びかけを開始する。
「転移開始まで残り三十秒、カウントダウンに入ります」
「転送目標、ヘー回廊、象徴展開図案、<皇帝>ウェイトヴァージョンを指定」
その全てを静かに見つめるラーシェンの傍らで、震えを隠せずにいるセシリアは沈黙にたまりかね、ラーシェンを見やった。
「……いよいよなのね」
「そうだな」
ラーシェンは視線をモニターから離さぬまま、低く応えた。
これから向かう先は、ただの回廊ではない。数々の転送実験のうち、ほんの一握りが帰ってきたに過ぎない、未知の回廊であるのだ。
これまでの常識は通用しないと思っていたほうがいいだろう。
該当するタロットカードの象徴を展開させ、魔術的回路の解放によって物質転移するシステム自体は健在のようではあったが、その先に何が待っているのかは予想がつかない。
だからこそ、彼を見送るフィオラとメイフィルの瞳に宿る不安の光が、忘れられなかった。
<Cochma>転送グループとして、クレーメンス隊以外に選出されたメンバーは七人。
SchwertMeisterであるラーシェン、そして同じ力を持つ元正宗師団長アンジェリーク・カスガ。
さらに、彼女の有する特務部隊<白仙>より、二人のSchwert・Meister。
そして皇太子后イルリック・ブルーアヴローと、彼女の守護を担うS.A.I.N.T.。
さらにセシリアが加わることで、彼等だけでも戦力としてはかなりのものであろうことが伺える。
しかし、いかに戦力が凄まじいとしても、宇宙空間において生身で生き残ることはできない。もし艦船が破壊され、宇宙に投げ出されるようなことがあれば、彼等とて無事には済むまい。
だからこそ、操縦士たちは細心の注意を払いつつ、転送準備を進めているのだ。
「カウントダウン、残り十秒」
袖を引かれ、ラーシェンは傍らに視線を落とした。白く細い指が、ラーシェンの黒い外套を握っている。
「……ごめんなさい」
震える声で、俯いたセシリアが呟く。
「私は、軍人失格なのかもしれない……中将になったのだって、私が王家の人間だから……」
航行速度が増し、ぐんと躰に重力がかかる。
「確かにな」
肯定され、セシリアは顔を上げてラーシェンを見やる。
「お前は確かに軍人には向いていないのかも知れん……しかし、それが短所だということにはならん」
「……七……六……」
モニターの中で、星々の光が徐々に延長され、中央にて収斂する直線となり。
「お前は昔から、優しい子だったものな……?」
振り向くラーシェンの横顔を強烈な光が照らし。
「三……二……一……へー回廊、開門します」
操縦士の声と共に、艦隊は光に飲まれ、<Tiphreth>から消失した。