第三十二章第二節<Denkard>
聖教典。
波斯神話系列の文献として、<原初の創造>と並ぶ代表的な教典として名高いものである。
その名を冠せられた移動要塞は、五つの球体を回廊で円形に接続した形状をしていた。
五つの球体それぞれの周囲には高密度の対光学兵器、物理破壊兵器用の結界が張り巡らせることができる仕組みになっており、また対呪術戦略兵器対策には回廊の外周部に教典文字を高速旋回させることで、ヴァーユ神の加護と同等の守備能力を生み出すことができる。
これらのセキュリティシステム、<除魔書>を有するこの要塞は、事実上攻略不可能とされてきた。
それ故、デーンカルドの起動権限は<Taureau d'or>王家の最高峰たる皇位もしくは皇太子に限定され、また皇位並びに皇后、さらにはそれぞれの守護を担うS.A.I.N.T.の四つの連名による署名なくしては起動は出来ないものであった。
現在の皇位は空位であり、皇太子はジェルバール・グルグ・アイニーク・フォレスティア。
その移動式要塞が接近中であるという報告は、彼等を混乱の渦に突き落とすには充分すぎるだけの衝撃を伴っていた。
現行の状況において、王家が自分たちにとって敵か味方か、容易に判別することは難しい。
否、それはあくまで希望的観測を多分に含んだものなのであり、常識に沿って考えれば、<Taureau d'or>軍部に叛旗を翻した自分たちにとって、王家が好意的な存在であるはずがなかった。
敵ではないにしろ、限りなく敵意を抱いた中立的存在としての、王家。その皇太子が、自ら移動式要塞を動かしてまでこちらに向かっているということが何を意味するのか。軍議を中断させた各師団長、大将、元帥らは各自の部隊における出撃編成に取り掛かっていた。
最終警戒距離は五千キロメートル。それまでに通信、電信あらゆる接触方法をとらず、沈黙のままそのポイントを通過するようなことがあれば、こちらは攻撃の意志有りとして出撃準備を行う手筈になっていたのであった。
誰もが、叛乱後の最初の戦闘を覚悟したその瞬間。
艦間通信回線から、皇太子ジェルバールの映像つき通信を受信したのだ。
我等の軍勢に戦闘の意志なし、<Taureau d'or>ならびに<Dragon d'argent>より離反した貴公らと同じき志を持つ者なり。
その文面を受信してから四十八分後。一堂に会した師団長、元帥、大将らの前に、彼は姿を現した。
デーンカルドを飛び立った小型艇は、使節団を乗せたまま<石凝姥神>に収容されることとなった。
急遽艦に集ったバルダザール元帥、セヴラン大将、そしてマティルデ師団長が出迎える中、開いたハッチから姿を現したのはすらりとした長身を黒い衣装で包んだ壮年の男性であった。
彫りは深く、また顔のあちこちに皺が刻まれている。実年齢よりは明らかに老けて見えるものの、それを弱さには見せぬだけの気力はいまだ満ち溢れていた。
ジェルバール・グルグ・アイニーク・フォレスティア。現王家の皇太子としての威風と品格をそのままに、彼は長い裾を揺らしながらタラップを降りてくる。
靴底を鳴らし、床まで降りたそのとき、艇の中から今度は純白の人影が姿を現した。
全てがジェルバールと対照的な印象を抱かせる人影は、女性であった。荒々しく抱き寄せただけで折れてしまいそうな体躯は、一点の曇りもない特殊な光沢を織り交ぜた絹布のドレスを纏っている。温和そうな顔立ちと、憂いの翳りを同居させたその女性は、三人が見守る中、本当にゆっくりと、一歩ずつを踏みしめながら段差を下る。
二人を出迎える三名の胸中は、穏やかなものではなかった。
ジェルバールの様子を見てもなお、まだ王家の最高峰が自分らと共にするという現実を受け入れ難いのである。今この瞬間にも、ジェルバールが陰惨な笑みを浮かべ、どこかに身を潜めていた王家直属の軍隊が自分たちに総攻撃を仕掛けてくるのではないかという不安が精神を揺さぶってくる。
そしてそれを、弱者の妄想だと一笑に付すことは、誰にも出来なかった。
「改めて名乗ろう、我が名はジェルバール・グルグ・アイニーク・フォレスティア……だが念のため釘を刺すが、我が意志はあくまでも我自身のもの、よって王家の全面的な助勢を意味するものではない」
それから、ジェルバールは自分の斜め後方に立つ女性に向き直る。
「イルリックと申します、以後お見知りおきを」
控え目な言葉遣いで一礼する女性。
皇太子と皇太子后、二人が王家に対して離反を決定したということは、最早この騒動の顛末は容易には終わらぬであろうことは容易に想像できた。
躰を起こしたイルリックは、するとそのままついと歩みを進める。
彼女が向かった先は、第四艦隊バルダザール元帥であった。頭一つ低い位置から、ひたとバルダザールを見据えていたイルリックは、やがて口元に笑みを浮かべ。
「随分とご無沙汰致しました、無礼をお許しください……父上」
驚きの視線を浴びながら、バルダザールは温和な顔をさらに笑みに崩す。
ブルーアヴロー家の現当主が、まさか騎士団の元帥位をも兼ねていたとは。貴族どもに向けられる蔑視の一つとして、常に自らは安全な場所にいながらにして、権威だけを振り翳すというイメージを払拭するだけのことを、この男は今までやってのけていたのだ。
「それでは、私からの提案をさせていただきたいのだが、よろしいか」
ジェルバールの低い声に、誰もが向き直る。
「先刻も言ったとおり、王家直属の艦隊を連れ出すことはできなかった。つまり、君たちに力添えができるのは、あの移動要塞……すなわち補給機能ならびに居住区としての設備だけだ」
「充分です」
礼を述べ、頭を下げるマティルデ。しかし、次の台詞はその場を凍りつかせるだけの衝撃を秘めていた。
「ですが、我等は既に叛乱軍として、ブラックリストに載っていることでしょう……あなたを復帰させ、傀儡政権を樹立させたいと企む政治家ならともかく、ここではあなたは皇太子ではなく、一人の軍人として扱わせていただきますが、よろしいですね」
よく通る声で放たれたその言葉を、ジェルバールは正面から受け止めた。
その表情には、狼狽も、迷いも、混乱もなく。
ジェルバールの態度から、マティルデは確信した。
この男は、社会的地位に必要以上に固執していないのだと。今回の離反において、保身と名誉、そして財産を天秤にかけるような真似などせぬ男だと。
「わかっている。心配は無用だ」
「それはなによりですわ」
マティルデの浮かべる微笑に、ジェルバールは小さく頷き。
「では先を続ける。軍備が非常に限定された上、我等皇太子と后が聖教典を持ち出したという事実は、恐らく奴等にこの場所を教えることを意味しているだろう」
「なに、気に病むことはない」
バルダザールは両手を後ろに組んだまま、幾度も首肯した。
「これだけの規模の艦隊……隠れ家など端から期待しておらんよ」
「では、何か策があると?」
詰め寄るセヴランに、ジェルバールは言葉を継いだ。
「ここより十五万キロ離れたところに、直径にして八百キロの規模の小隕石群の円陣がある……迎撃するにはちょうどいい要塞だと思うが」
「隕石群か……」
確かに、流動的に旋回を続けるそれは、身を隠すにはもってこいの場所だ。しかも規模が凄まじく大きいということは、それだけこちらの存在を拡散させることができる。
「俺たちの最終的な目標は<kether>の到達だ。象徴展開にさえ成功すれば、隕石群の中央領域だけで回廊転送は充分にできる」
「……承知した」
セヴランの説明に、ジェルバールは頷くと踵を返した。
黒い外套の裾が風を孕んで膨れ上がる。
「デーンカルドはこれより隕石群地帯へ移動を開始する……到着次第、縦方向からの侵入を防ぐ結界端子を隕石群流内に散布を始めることにしよう」




