第三十一章第二節<Thawing of Chain>
「これで、あとは意識の回復を待ちましょう」
溜めていた息を吐いて、治療術師は顔を上げた。
白一色にコーディネートされた医務室に並ぶベッドの一つに、ラーシェンは寝かされていた。清潔なシーツに寝台、そして取り囲むように並ぶ計測装置と金環。ラーシェンの周囲をぐるりと囲む楕円形をした金環こそが、治療の要を担うものであった。
薄い光照液晶モニターになっているそれには、大祓祝詞の漢文が流れている。それの中央に安置することにより、祝詞奏上と同じ効果の浄化作用をもたらすという呪的治療具であった。
「……ありがとうございました」
医務室の入り口付近で立ち尽くしたまま、治療の様子を見守っていたセシリアは、深々と頭を下げた。
「この方は、以前に放浪病を患っていますね?」
眼鏡をかけた治療術師は、上目遣いにセシリアを覗くようにして尋ねる。その質問にセシリアは狼狽し、苦笑しつつ首を横に振った。
「……ごめんなさい、よく分からなくて」
「放浪病の兆候がいくつか出ています……恐らく、戦場で怨念を引き寄せてしまったのでしょう」
戦場ほど、遊離した不安定な念や魂魄に満ちた場所はない。
通常、妖魔との戦闘によって蓄積する怨念によって引き起こされるといわれる放浪病だが、こうした場合にも起こりうる。そのため、歴戦の兵士になればなるほど、戦闘後の祓を綿密に行うのだ。
正規の兵士ではない、雇われ者の傭兵の中には、自ら祓の儀式を行えるように霊力を高める者までいると言う。
「ここで二時間ほど安静にしていれば、すぐに意識は回復します。ご心配なく」
セシリアはもう一度頭を下げると、医務室のドアの向こうに姿を消した。
救難信号への返信を受信したのは、ラーシェンが発作によって意識を失ってからすぐのことだった。
ラーシェンらを乗せた哨戒艇が行方不明になったことにより、ジークルド師団長の派遣した探査艦は、出艦から三十七分後に無事、艇を回収した。
放浪病の発作を起こしていることを確認した回収班はすぐにラーシェンを医務室に搬送、同乗していたセシリアの祓も同時に行うことを決定し、ひとまずはラーシェンの回復を待つことになった。
<Taureau d'or>の軍事演習を狙った奇襲攻撃は、ひとまず成功を収めることとなった。部隊を壊滅されるほどの被害もなく、また主要人物の回収と離反誘導に成功し、これによって<Taureau d'or>と<Dragon d'argent>は大きな戦力的削減を蒙ることとなるであろうことは明白であった。
しかし、問題はいまだ山積している。
その中でも重要なのは、兵士たちの士気の維持と現状の正確な把握であった。如何に階級が低い人間といえど、今自分たちが置かれている現状を知らずして、行動の優先順位を正しく判断することは不可能だ。
また、事実を隠蔽したとしても、それはその場しのぎの対応にしかならぬ。
情報の正確な開示と、士気の高揚。それをまず最初になすべきだと考えたジークルドは、全部隊を帰還格納庫へ召喚することを決定した。
一時的に他の戦艦に収納してある機体の全てを移し終えたその格納庫は、異様な熱気に満ちていた。
<Dragon d'argent>三師団、<Taureau d'or>二騎士団あわせて優に一万を超える人間が、格納庫に集結していた。
そしてその全てを見渡せる場所にいるのは、<Taureau d'or>第五<星彩青玉>騎士団セヴラン・ファインズ大将と、<Dragon d'argent>天叢雲剱師団長ジークルド・ツヴァイク。
それまで、格納庫内を満たしていたざわめきは、ジークルドが一歩前に進み出た、たったそれだけの動作によって、水を打ったように静まり返る。
ジークルドはキャットウォークの上から兵らを睥睨し、その全てを視界に納め、そして。
「諸君!」
広すぎるその空間において、ジークルドの声量は決して充分とはいえなかった。しかし、その言葉に込められた胆力と決意、そして何より彼自身の持つカリスマ性が、言霊となって兵らの心に直接語りかけるほどの影響力を及ぼしている。
「我等<Dragon d'argent>三師団は、本日、<Taureau d'or>の軍事演習の場において、それまでの仇敵であった騎士団に剱を突き立てた……しかし、私は今宵を限りにして、仇敵という言葉を<Taureau d'or>に対して用いることを、永久に封印することを誓う!!」
動揺はない。
否、兵らの心中では暴風にも似た嵐が吹き荒れていることであろう。しかしそれを表に出してはならぬ、という抑制が、彼等の私語を封じ込めているのだ。
「何故ならば! このたびの奇襲作戦の成功は、ひとえに……彼、<Taureau d'or>第五騎士団セヴラン・ファインズ大将の功労によるところが大きいからである!」
兵らのうち、<Taureau d'or>の制服に身を包んでいる者たちが歓声を上げた。彼等の声に応えるべく、セヴランはジークルドの隣へと進み出、そして右手を上げた。
数秒の遅れをもって、再び格納庫に静寂が訪れる。
「そして我等は最早、<Dragon d'argent>、そして<Taureau d'or>という呼称すら捨てるべきではないだろうか。我等は、両者のいかなる属軍でもない、全く我等の意思にのみ従う、自由を欲する絆によって結ばれた同志であるからだ!!」
今度は、兵らが一斉に沸き立った。ある者は拳を突き上げ、ある者は感涙にむせび。
「聞け、諸君!!」
ジークルドはその声を制することなく、さらに響く声をもって言葉を続けた。
「我等三師団は、<Dragon d'argent>より勅令を受けた……その内容とは、近日中に<Taureau d'or>との交戦を行うべし、それによって世論を戦勝に沸かせ、現政権維持のための基盤を固めるべしと!! 諸君等が命を賭して戦っているその真意は、議席を得るためだけの戦略であるのだとしたら、諸君等は如何様に受け止めるか!!」
歓声に怒号が混じる。明らかに、その中には厳しい軍律においては認められぬような品のない言葉も混じっている。
「そしてさらに、諸君らにはこのことを知っておいてほしい! <Taureau d'or>最大の汚点である、射手座宙域の聖歌隊の生存者に、<Taureau d'or>は如何なる行為をして報いたか! その生き証人が、すなわち彼である……見よ、勇敢にして剛毅たる彼、ヴェイリーズ・クルズの姿を!!」
ジークルドの指し示す先には、二つの人影があった。
車椅子に乗せられ、虚空に視線を彷徨わせているヴェイリーズと、その車椅子のハンドルを握っているフィオラの姿であった。まるで見えぬ蝶を捕まえようとでもしているかのように、小刻みに震える右手を伸ばすヴェイリーズ。
その姿に、兵らは現実を直視せざるを得なかった。
「彼を保護しようとした八咒鏡師団に代わり、彼に睡眠呪式を施した正宗師団のみならず、<Taureau d'or>は洗脳の疑いありとして、Chevalierの力を持つ彼の筋肉と脳を、薬物注射による破壊を命じたのだ! これが、現<Taureau d'or>の、弱者に対する処断の事例である!!」
ぐっとハンドルを握る手に力をこめ、フィオラはジークルドと兵らを交互に見比べていた。
その隣には、彼女を支えるかのように、初老の元帥バルダザール・ブルーアヴローがいた。
バルダザールは彼女の様子に気づいたのか、そっと肩に手を置いた。後ろを振り返るフィオラに、バルダザールは優しく微笑み。
「辛いのならば、奥で休むといい」
「……お心遣い感謝いたします……でも、私は辛いんじゃないんです……」
「ほう?」
眉を動かすバルダザールに、フィオラは続けた。
「もし、彼が、無事だったら……これは多分、彼が思い描いていた理想の一つの形だったんじゃないでしょうか」
幾星霜にも渡り、対立を続けてきた<Taureau d'or>と<Dragon d'argent>。その両者の間に描かれ続けてきた分厚い壁は今打ち砕かれ、互いに手を取り合う者たちが現れたのだから。
決してそれは両者の和合ではない。
しかし、疑問を抱きつつも、無益な争いを延々と続けるよりはましであることは、確かであった。
「こんなでなければ、ヴェイリーズだって……あそこで演説をしたかったんじゃないでしょうか……彼は口下手でしたけれど、たぶん……自分の思いを熱く……」
ぽたり、と手の甲に熱い雫が落ちる。
「皮肉、だな」
バルダザールは、静かに呟いた。あまりに小さいそれは、ともすれば兵らの歓声に溶けてかき消されてしまいそうなほどに頼りない。
「セヴランが行動を起こしたのは、まさにヴェイリーズの処断に怒りを感じたからだ……ヴェイリーズ君は、命をもって、この両者を出会わせたのだよ」
「諸君、これより我等が目指すべきは至高の中枢である! 我等の目的はそれによって支配者となることではない! 無益な争いに満ちた世界を放棄するために必要なもの、すなわち……第一活動可能領域<Kether>への道を導き出すことである!!」