第三十一章第一節<Curse of Blood>
ラーシェンは、白く濁る呼気を揺らしながら、すぐ頭上にある強化水晶で出来た窓に指を触れた。それは酷く冷たく、そしてすぐ近くに走る亀裂は結晶のように、恐ろしく美しい幾何学文様を描いていた。
乾いた唇を舌で湿らせると、そこには微かに血の味がした。既に機密服を脱ぎ捨てていたラーシェンは、隣にある無人のシートと、そして後部座席で寝息を立てているセシリアをちらりと見やった。
あれからどうやって、戦場を離脱したのか、よく覚えていない。
交錯する光と爆発、そして何度も機体を襲った衝撃と震動は、まるで悪夢のようにまざまざと思い出されてくる。
全天を覆う強化水晶のウィンドウの向こうには、静かに冷たく煌く星々の輝きのほかには、何も見えない。回廊を抜けるだけの設備が整っていないということは、ここはまだ同じ活動可能領域内のどこかなのだ。
いまだその虚空のどこかで戦いが行われているのか、それともとうに終わってしまったのか。冷たく満ちた空気は、どこか不安をかきたてるには充分なほどに薄い。
ラーシェンは溜息をついてシートに身を預け、そして隣のシートをもう一度見た。
そこに座っていた操縦士は、もういなかった。
光学兵器の余波を受けたのか、機体が激しく軋み、操縦士の乗る側の窓が割れたのだ。亀裂が走り、空気が抜けただけで砕けなかったのは不幸中の幸いと言えた。しかし、その衝撃で頚椎を砕かれ、頭を割った操縦士は、それきり動かなかった。
そのときの被害でエンジンが傷ついたのか、今では完全に沈黙してしまっている。空気循環システムにも故障が見られ、機内の酸素残量は三分の一以下にまで低下してしまっていた。対策として、窓の亀裂をゼリー状の接着剤で固め、また脱出用のポッドで操縦士の屍骸を排出することにより、酸素消費を出来るだけ押さえては見たものの、救援に来てくれる保証はまるでなかった。
酸素残量から計算して、それを使いきるまでの時間は十二時間弱。定期的に一定領域内に緊急回収を求める信号を発信する以外に、打つ手はなかった。
「どうして……」
その声はまるで、あの夜の庭園の回想のように、機内の冷たい空気を震わせた。寝ているものとばかり思っていたラーシェンは驚き、そして後部座席を振り向く。
「どうして、王家を飛び出したの?」
あなたがいなくなってから大変だったのよ、とセシリアは苦笑混じりに笑ってみせた。
ラーシェンは視線を正面に戻し。
「若い頃の俺には、どうしても許せなかったんだ……しがらみってやつが」
慣例という名の元に行われている、数々の行為。その一つ一つが、若きラーシェンには苦痛でしかなかった。
どうして、もっと目を外に向けないのか。どうして、現状を知ろうとしないのか。まだ少年である自分にさえ、違和感を感じられているというのに。
たとえば、年に幾度も行われている祭礼、儀式、そして典礼という名の祭。準備には膨大な資金と労力が注ぎ込まれ、それらはたった数日の華やかな時間の中に消えていく。しかしその一方で、財政は困窮しているという話を聞かぬ日はなく、また民衆の暮らしは決して楽ではない。
支配階級としての責務は、被支配者との望ましき共存を求めていかねばならぬのではないか。
だが現実はどうだ。七つの騎士団を抱える軍部は、どう見ても必要以上の軍備を揃え、一向に<Dragon d'argent>との和解の道を歩もうとはせぬ。そればかりか、セレスティア家、ブルーアヴロー家、ユーゴー家の三つの家系からなる王家は、複雑な権力の網が張り巡らされ、会合の開かれぬ日はないとまで思えるほどに、ひっきりなしに着飾った人が出入りしている。
幼きラーシェンは、幾度となく家庭教師に尋ねたことがあった。果たして、あのようなパーティーはどのような意味を持つのか、と。
だが家庭教師の答えはいつも同じであった。それを知るには、自分はまだ若く、知識も足りぬ。いずれ分かる日がございましょう、という結び文句で、常に質問は打ち切られた。
今なら分かる。あの家庭教師もまた、答えを見出せていなかったのだ。否、知っていてもなお、現状を変えることができなかったのだ。
あの家庭教師の女性を責めているのではない。
「結果、全部を兄さんに押し付けてしまった……それについては、兄さんに悪いことをしたと思っている」
実兄ジェルバールでさえも、その体制をついに変えることはできなかったのだから。皇太子にできぬことを、一介の家庭教師にしろというほうが無理がある。
「そうだったんだ……」
従妹のセシリアには、訳もわからず、突然に姿を消したラーシェンを思わぬ日はなかった。
幼心にも、それが尋常なことではないということだけはわかっていた。ある日は心遣い、ある日は責め。そうしてセシリアは、ラーシェンのいぬ毎日の寂しさを紛らわせていた。
だが、今そのようなことを伝えたいのではない。
そのとき、ラーシェンはふと、過去の記憶が蘇えってくるのを感じた。
『先週、<Taureau d'or>は俺たちに、通告してきやがった……ジェルバール・グルグ・アイニーク・フォレスティア……どこの誰だかも知らない人間のために、なんで俺たちが金を出さなきゃいけないんだ!!』
そう言い放ったのは、ヴェイリーズであった。ラーシェンの祓を済ませたヴェイリーズの口から、怒号と共に溢れ出た言葉。
王家の婚礼ということは、兄は妻を娶ったのだろう。普通の婚礼であるならば、祝福することができたのに。しかし、王家の婚礼となれば話は別だ。
個人間の恋愛感情など二の次に回され、主たる目的は三つの家系が互いに相手を監視し、あわよくば有利な人材のコネクションを作り上げるために利用される、政略的行為としての機能しか持たなくなる。それはすなわち、若きラーシェンが忌み嫌った行為のまさに典型的な一つの事例であった。
「兄さんは……たぶん、俺のことを許さない」
あの日、別れを伝えたのはセシリアのみ。
そのことはセシリア自身もまた、充分に分かっていた。だからこそ、セシリアは幾度ラーシェンの行方を尋ねられても、首を横に振るしかなかったのだ。
何度、胸中を吐露し、ラーシェンを探してほしいと懇願しようとしたことか。しかしそれは、ラーシェンが望んだ結果ではないのだ。
「どうして、そんな」
「お前も知っているだろう? 七年前の惨劇が、如何に凄まじかったか……」
射手座宙域の聖歌隊。
「あの事件のときに、俺は兄さんの側にいなかった……軍部の独走が招いたあの事件を、兄さんは一人で……」
ラーシェンは額に手を当てる。
自分自身もまた、あの事件で妻と娘を失っているのに。それでもなお身を苛んでいる苦悩は、躰の中を流れる血に、王家のものが混じっているという現実ゆえであった。
どんなに王家との繋がりを否定しても、血族であるということだけは確かであった。そのためにラーシェンの身にはSchwert・Meisterとしての才覚が宿っていたのだから。
「あなたのせいじゃないわ」
セシリアの細い腕が、ラーシェンの黒衣に伸ばされる。
後ろから回された腕が、優しくラーシェンを抱き締める。
「あなたのせいじゃない、もちろんジェルバール兄さんのせいでもない……あれは……」
礼を言おうとしたラーシェンは、しかし言葉を紡ぐことができない。あまりにも混乱した思考から生まれる言葉は、いまだ形を帯びぬ。
「ねえ、生き残ることが出来たら、どこか遠いところに逃げましょう……?」
すぐ近くで、セシリアが哀願するように囁く。
「もう、殺し合いなんてしなくていい、王家のしがらみも関係ない、遠いところで……」
「セシリア」
細い腕に自分の手を重ね。
「カルヴィスは……そんなことを望んでいると思うか?」
「えっ」
「彼が望んだ顛末は、そんなことじゃない」
ひゅう、とラーシェンの喉から音が漏れる。
「俺たちは……」
ひゅう、と空気が漏れる。
呼吸が出来ない。
前かがみになると同時に、セシリアの腕が解ける。
異変にセシリアが気づいたときには、もう遅かった。
波打つ背中と、激しく咳き込む音。続いて、床に散る紅。
ひゅう、と喘ぐようにラーシェンの顔が持ち上げられる。
声なき言葉を唇が紡ぎ、そして。
黒衣の剱士は意識を失い、前に倒れた。