第三十章第四節<Bonds of words>
一瞬、世界が回転した。
重力の制約が喪失し、三半規管と脳と神経が混乱をきたす。ラーシェンの感覚は、だがすぐにこの無重力空間において順応を見せてきていた。
通常、重力圏内の生活に慣れ親しんだ人間が無重力に慣れるまでには、体力的、精神的にも数ヶ月を要するといわれている中で、ラーシェンの順応力はやはり卓越していた。
八咒鏡師団が下方から抉りこむような軌道を取ったことにより、第二騎士団の行動はかなり制限されたものになっていた。そのために生じた隙を見逃さず、ラーシェンと操縦士を乗せた哨戒艇は虚空へと吐き出されたのだった。
航行しながらの出撃であったため、哨戒艇はくるくると回転しながら暗黒の空間へと舞い上がる。だが、操縦士はやはり一級の腕前を持っていた。回転する操縦席の中で、バーニアの点火比率を計算し、すぐに平衡を取り戻すや否や、目標の艦船へ向けて突入を開始していた。
今回は二人を救出して帰還するために、燃料設計には往復ぎりぎりのものしか搭載していない。
それ以上の過載は、著しく機体の機動力を低下させることになる。戦火の中、立ち往生する小さな機体など、恐らく一瞬で破壊されてしまうであろう。
ラーシェンはシートに手を突きながら、全天モニターに映る艦船を見上げている。
数箇所に被弾した艦船は、装甲から紅蓮の焔を噴き上げている。内部の酸素漏出により、焔は一瞬だけ閃き、そして消失する。
宇宙空間には酸素は存在せず、焔はその燃焼媒体を失うことにより、それ以上の拡散はない。しかし、焔の意味するところを想像し、ラーシェンは思わずシートをきつく握り締める。
「……急いでくれ」
「わかっています」
操縦士の緊張した声は、艦船までの直線経路にあった。
こうしている間にも、無数の光が交錯している。それらの間隙を縫うように操縦し、不規則に繰り出される光の網の目を掻い潜って、哨戒艇は二人がいるであろう艦船へと向かう。
次第に距離が縮まっていくにつれ、艦船の被害状況が深刻なものであることが分かってきた。
外装部分はかなりの損傷を見せ、部位によっては大きく抉れたその向こうに船室や貨物が見えている。既に相当数の区画を閉鎖、放棄しているのであろうその艦船の寿命は、最早そう長くはないと思えた。
「ラーシェン様、この状況ですといつ船が爆発してもおかしくはありません」
操縦士も同じことを考えているらしく、震える声でそう告げる。
「十五分を目安に、戻ってきてください」
「了解した」
隣席で機密服にヘルメットを装着したラーシェンは頷く。
「では……参ります!」
ぐん、と加速したかと思うと、艇は突き出た鉄材と装甲との僅かな隙間を見つけ、その中に飛び込んだ。
がりがりと外部装甲が接触し、火花が散る。それにも構わず突き進み、そしてようやく機体を安定させることができる空間を見つけると、操縦士は減速、停止させる。
「……御武運を、お祈り申し上げます」
「行ってくる」
二人分の機密服とヘルメットを携えたラーシェンは、開かれたハッチの窓枠を蹴ると、無重力の中に身を躍らせていった。
いくつかのハッチを抜け、ようやく空気のあるエリアに到達したラーシェンは、ヘルメットを脱ぐなり頬を伝う汗を手の甲で拭った。
艦内は既に投棄されているのか、人の気配はない。燃え盛る焔だけが不気味な影を揺らし、ラーシェンを幻惑する。かなりの炎熱が、こうしているだけでも顔を弄り、肺を焼く。
「くそッ……」
二人の名を呼びつつ、ラーシェンはブリッジに辿り着く。
ドアを開くなり、ラーシェンは呆然となった。
動くものはない。あちこちに倒れている人影からは、嫌な匂いのする煙が上がり、ここでも火の手が充満していた。
十五分。
その時間制限が、刻一刻と削り取られていく。もう駄目なのではないか、という不吉な予想が何度も頭を過ぎる。
この広い艦船の中を、一つひとつの部屋をつぶさに調べていく時間はない。折れそうになる心をなんとか支え、廊下に戻るラーシェン。
壁材の破片に覆われた廊下に目を落としたラーシェンは、手ごろな鉄骨が捻じ曲がったまま落ちているのを見つける。
迷う時間などないのだ。迷っている暇があるのなら、それはただの浪費でしかない。
やおら鉄骨を拾い上げると、ラーシェンは壁を幾度か叩き、耳を澄ませながら先を急いだ。
手首にあるタイマーは既に四分が経過している。
残るは九分強。その間に、二人を見つけ、そして戻らなくては。
ブリッジの属する中央エリアを抜け、客室エリアに到達した時点で、さらに一分が経過していた。
埒が開かない。焦るラーシェンは鉄骨を投げ捨てると、声帯を痛めつけるほどの大きさで二人の名を呼んだ。
今にでも、すぐ横のドアから焔が噴き付けてくるのではないか、という不安に襲われながら、ラーシェンが駆け出そうとしたときであった。
すぐ近くで、何かが金属にぶつかる音がした。
これまでは、焔の音以外は崩落や倒壊などといった音が一切しない船内であったため、その音はラーシェンの知覚に素早く捉えられる。
息を殺し、周囲の気配を探る。待つこと十数秒、再び音が聞こえてきた。先刻と同じくらいの音量だ。
これまでと変わらず聞こえてくるのならまだしも、ここに来て新しく何かが崩れているとは考えにくい。
音のした客室のドアに駆け寄り、ラーシェンは開扉のボタンを押す。
だが接触が悪いのか配線が切れているのか、ドアは薄く開いただけで止まってしまう。
その隙間に顔を寄せ、ラーシェンは声を限りにセシリアの名を呼んだ。ややあって、物音は部屋の中から聞こえてくる。
間違いない。ラーシェンは近くにあった鉄骨を梃子代わりにして、ドアを強引にこじ開けていく。
やっと人一人が通れるだけの隙間を作ったラーシェンは、機密服を破らぬよう注意を払いつつ部屋の中へと躰を滑り込ませた。
部屋の中にまで、火の手は侵入していた。
崩壊が激しく、床には破損した家具の破片が散らばっている。それらにうずもれるようにしている人影を、ラーシェンは見た。
「……よぉ、色男」
力のない声で、カルヴィスはにやりと笑ってみせる。
倒れてきた鉄骨に押し潰され、額から血を流しながら、カルヴィスはまだ生きていた。そしてすぐ脇には、煤で汚れ、腕から血を流したまま動かないセシリアがいる。
「夢じゃあ、ねえんだろうな?」
「起きられるか」
膝をつき、ラーシェンはカルヴィスに問う。
「俺だけの力じゃ無理だ……それよりセシリアを頼む」
死んでいるのではない証拠に、緩やかな間隔で胸が上下している。ラーシェンは首の後ろに手を回して抱き起こすと、名を呼びながら頬を叩く。
幾度めかに、セシリアは顔をしかめ、そして微かなうめき声を上げて瞼を開いた。
「……あ……」
「動けるか」
口をついて出る言葉を堪え、ラーシェンは短く問う。今は時間がないのだ。
「……はい」
恐らく打撲と火傷、そして裂傷の痛みが全身を苛んでいるのだろう。小さな声を漏らしながら身を起こすセシリアに機密服を渡し、ラーシェンはカルヴィスの状況に目を向けた。
折り重なる家具のせいで詳細は分からないが、どうやら足を挟まれているらしい。
太刀があれば、このような瓦礫などいとも容易に斬り崩せるのに。手を当て、慎重に動かしてみるものの、床に伏せたカルヴィスが苦悶の声を上げるために思うように作業がはかどらない。
舌打ちをして引き下がるラーシェン。
何か、手はあるはずだ。部屋の中を見回すも、すぐそこにまで焔は迫っている。何とかしなければ、と焦燥に囚われた視線を走らせたラーシェンは、次の瞬間に愕然となる。
今しがた取ってきた廊下から、焔の揺らめきが見えたのだ。
まさか、もうそこまで燃え広がっているのか。そう感じると同時に、腹の底に響く音と共に、室内に間隙から紅蓮の光が暴れ狂った。
廊下にあった何かに引火したのだろう。その衝撃が部屋を襲い、ラーシェンは咄嗟にセシリアとカルヴィスを庇うように床に伏せる。焔のみならずばらばらと衝撃によって倒壊した破片が背に降り注いでくるが、それ以上の崩落はなさそうであった。
ほっと身を起こすラーシェン。
だが、運命の女神は、彼らに微笑を向けることはなかった。
セシリアの震える声に促され、ラーシェンはその事実に気づく。
爆発によって、残る一着の機密服に大きな損傷が出来てしまっていた。
恐らくは何かの破片がかすったのだろう。これでは、機密服は使い物にならない。空気のないエリアに入った途端に、全身の血液が沸騰して死に至ってしまう。
ぎり、と奥歯を軋らせるラーシェンに、カルヴィスは顔を挙げ、囁いた。
「行けよ」
「カルヴィス……!?」
どうやら、カルヴィスもまた、機密服の損傷に気づいたらしい。
既に装着を終えたセシリアが、その言葉に弾かれたように視線を向ける。
「どうも足が潰されちまってやがる……どの道俺は助からねえさ」
諦観を感じさせないほどの表情で、カルヴィスは血の混じった唾を吐いた。
幾重にも折り重なった瓦礫を少し動かしただけでも、カルヴィスは苦悶の声を上げていたのだ。足が今どうなっているのかということは、カルヴィス自身に知らせないほうがいいのだろう。
床に伏せたまま微笑むカルヴィスに、言葉が思い浮かばず、ラーシェンは煤に塗れたカルヴィスの顔を見下ろしている。
首肯はできまい。まだ生きている人間を、この場に残していくことなど。それが見知った人間ならなおさらのことだ。
戦友。カルヴィスに最も当てはまる言葉。
「……今から、この瓦礫を片付ける」
「やめろ」
「お前はまだ生きてる」
カルヴィスの言葉を打ち消すように瓦礫を握るラーシェンに、カルヴィスは怒号を放った。
「やめろって言ってんのがわかんねえのかッ!!」
何処にそんな力が残っていたのかと思わせるほどに激しい気迫。戦場での気ならば誰にも負けぬラーシェンが、思わず動きを止めるほどに、それはしたたかに心を打ち据える。
「……デァ、ズァーリッツ エル ファリア」
それは、ヴェイリーズ救出の前夜、カルヴィスから聞いた言葉。そして、ラーシェンにとって、それ以上の意味を持つ言葉。
ラーシェンとセシリアは、互いに顔を見合わせ、そしてカルヴィスを見つめる。
恐らく、否完璧に、カルヴィスはその言葉の意味を知らずに口にしているのだ。その旋律に、意味があるということすら知らないのかもしれない。しかし、その言葉をカルヴィスに教えたのは、セシリアであった。
ラーシェンに会ったら、この言葉を伝えてと。もし、何か反応があったら、それを忘れずに教えて、と。
「お前たちは、ずっと……探してたんだろ?」
ラーシェンとセシリア、二人を交互に見比べつつ、カルヴィスは呟く。
カルヴィスの言葉に偽りはない。探していた、という言葉は正確ではなかった。
だが、互いのことを忘れたことは、片時もなかった。単なる慕情ではない、その感情は、まるで生れ落ちたときから備わっていたかのように、互いの胸の奥にしっかりと生き続けていた。
「俺にかまってる時間はないはずだ」
それでもなお、ラーシェンは動かない。
動けないのだ。背を向ければ、それは死の宣告を意味する。ぐっと拳を固め、ラーシェンは唇を噛む。
左の手首で、十五分経過を示す警告音が鳴った。
ぐい、と袖の引く手があった。顔を上げると、そこにはセシリアが真摯な瞳をこちらに向けていた。
「行きましょう……時間がないわ」
その頬に、雫が伝う。それでも、セシリアは目を逸らさない。
「セシリア・フォレスティア中将」
伏せたままのカルヴィスは、改まった口調で呼びかける。
「民間人ラーシェン・スライアーの護衛を任ずる……安全な場所まで、責任をもって護衛するように」
震える唇を隠すように、セシリアは言葉を発せられない。
「俺はもうすぐ特進だ……そうすりゃ、大将になるんだぜ? 命令の一つくらい、させろってんだ」
軍人に籍を置く者は、戦死の場合は特進として階級が上がる通例となっている。にやりと笑って見せるカルヴィスに、セシリアは敬礼を返し。
「謹んで拝命致します、カルヴィス・ウーゲル大将」
艇に帰還したのは、十八分が経過した後であった。
幸い、本格的な爆発はいまだ起きてはおらず、操縦士の狼狽した視線に迎えられる形で、二人は艇に乗り込んだ。
「待たせたな」
ラーシェンの態度に疑問を隠せない操縦士は、コンピュータを再起動させつつ、隣を見やる。
「あの……ラーシェン様、もう一人の方は」
「残念ながら、この爆発で命を落としました」
ぞっとするほどに凛と響く声で、ラーシェンの隣のセシリアが代わりに口を開く。言葉に詰まっていたラーシェンは、恐ろしく滑らかに口をついて出た言葉に、驚きを隠せぬままにセシリアを見る。
そして、その横顔から、セシリアの胸中を理解した。
こちらを振り向くこともなく、ただ正面を見つめるセシリアは、震えていた。必要以上の言葉を発しないように、真一文字に引き結ばれた唇は、心なしか血の気が薄いようであった。
そしてなにより、シートの上でラーシェンの袖を握る手指には、かなりの力が込められていた。
「もう、遅かったんだよ」
「……では、離脱します」
ラーシェンの言葉に、状況を理解した操縦士は、コンソールに指を走らせる。
がくん、と艇を離陸の衝撃が襲い、ついで躰がシートへと押し付けられるほどの加速度をもって、艇は再び宇宙へと帰還する。
一瞬ののち、艇は滅び行く艦船に別れを告げ、虚空へと飛び立って行った。
第三部 完