第二十九章第三節<The King of Abyss>
メイフィルの目の前で、ドアのロックが外された。施錠を示す赤いランプが緑に変わり、僅かに遅れてドアが横にスライドする。
部屋の中は、暗くてよく見えなかった。代わりに、饐えたような匂いが部屋の中から漂ってくる。
確か、ヴェイリーズは別の旅に出た、と聞いていたのに。どうして、この部屋から、人の気配がするのだろうか。まさか、ヴェイリーズは本当はこの部屋にいるのだろうか、という楽観的な予想が頭を過ぎる。
けれど、それにしては不自然すぎる。
第一、それならどうして、神妙な顔をしたフィオラがこんな深夜に、自分の部屋を訪ねてくるのだろうか。どくん、と心臓が一度大きく脈打つのを感じて、メイフィルは部屋の闇を凝視する。
「電気、点けるわよ」
それは、確認のための問いだったのだろうか。メイフィルが頷くと同時に、部屋の蛍光灯が明滅し、辺りを照らす。
正面に見えたのは、車椅子だった。
そこに一人の男が座っていた。
灰色の防寒用のゆったりしたトレーナを着た男の首は、妙な角度で曲がっていた。奇妙な声を発しながら、右手を伸ばすその動きに、男が健常者ではないことはすぐに分かった。
半開きになった唇、表情のない相貌、そして不自然な力の込められた手指。
だが、メイフィルは男から視線を離せないでいた。
メイフィルはその男に見覚えがあったからだ。どんなに変わろうと、彼の腕は太く、そして力強かった。快活そうに笑う口元は、決して自分にだけの言葉を囁いてはくれなかったけれど。
「……ヴェイリーズ……なの?」
「そうよ」
車椅子の車輪のロックを外しながら、フィオラは俯いて呟いた。
「どうして……」
「軍部の決定だったの」
ヴェイリーズは、ねじれた指でテーブルを指している。フィオラは車椅子のグリップを持つと、ヴェイリーズが示した机のほうへと、ゆっくりと動かしていく。
「捕まったとき、彼は深い催眠状態にあったの。軍部は<Dragon d'argent>が彼に何か洗脳をしていると思って……」
「だからって、どうしてこんな」
興奮を押さえ込むことができなくなっていたメイフィルは、フィオラの言葉を遮るようにまくしたてる。
薬物による筋肉及び脳の破壊。それは一言で済ませるにはあまりにも残酷な措置であった。
彼はChevalierである。通常の人間に対して使う薬剤が、同じ効果を及ぼすとは到底考えられることではない。
そのため、軍部は彼の措置に対し専用の薬物を用いることにした。
まず第一段階として、投与された人体において主要神経節および戦闘に有効とされる各筋肉組織を破壊する。しかしこの時点でChevalier体質の彼の肉体が薬物に対して抵抗することは予想されていた。
新陳代謝を高速活性化させ、一旦は破壊された各種筋肉および神経系統を再生、再構築する。その際、薬物は第二段階の効能を発揮する。
すなわち、中枢神経系の内部に薬剤を浸透、変質させ、伝達情報に意図的に一定の誤情報を混入させる。これにより中枢神経は健康維持に必要な情報を素早く正確に伝達させることができなくなり、正常な肉体を阻害する。
そして第三段階として、再構築された筋肉に含有されるミトコンドリアを破壊、変質させ、筋肉に有害な物質として内部から恒常的に破壊を継続する。故に再構築された筋肉は正常に機能することができなくなり、常に破壊に対し再生し続けることになるため、回復速度を著しく減退させる。
これらの薬物の第二、第三破壊はChevalier体質の回復量を上回る速度で進行するため、投与された人間はゆっくりと時間をかけ、緩慢な死を迎えることになっていくのだ。
かすかな軋みを上げながら、ヴェイリーズを乗せた車椅子は机の前まで、メイフィルの視界を横切っていく。それを唇を震わせながら見送るメイフィルの顔は、幾つもの感情が浮かんでは消え、また生まれては混じりあっていく。
フィオラはそれ以上は語らず、ただ黙って車椅子を押していく。机の前に到着したヴェイリーズは、思うようにならない指を懸命に動かして、乱雑に積み上げられたガラクタたちを掻き分けていく。
「どうしたの? 何か探しもの?」
身を屈めて話しかけるフィオラに、ヴェイリーズは何かしらの声を発するのだが、それは言葉にはならない響きのまま消えていく。
やがて、ヴェイリーズは求めていたものを見つけたようだった。
震える指でそれをなんとか摘み上げ、首を捻ってメイフィルのほうを向き。嬉しそうな、懸命な表情で、それをメイフィルに差し出してみせる。
視線の先ではっと身を固くするメイフィル。ヴェイリーズが見つけたそれは、パステルカラーの紙だった。何のことなのかさっぱり分からないフィオラであったが、二人には非常に意味深いそれ。
それは、ヴェイリーズが<Dragon d'argent>に拉致される直前に、メイフィルが渡したクッキーの包装紙であった。
全てが青天の霹靂であった。
軍事演習中に、まさかこれほどまでに堂々と、<Dragon d'argent>が姿を現すとは。
しかし、誰一人、その出現に気づくことはなかったという異様な事態は、極度の混乱状態を生み出していた。
唐突に姿を現した<Dragon d'argent>の艦隊は、ぐるりと馬蹄状に陣形を組んだ右舷付近に出現していた。やや奥まった配置になっている第四騎士団を第一の攻撃対象に選んだ<Dragon d'argent>は、至近距離から容赦のない攻撃を仕掛けた。
回避することも出来ず、直撃を受けた第四騎士団の第一陣が閃光と爆発に包まれる。圧倒的な熱量を持つエネルギーの奔流が一瞬にして出現し、宙域内に超新星のような光度を生み出していた。
「緊急信号、緊急信号!! <Dragon d'argent>の襲撃あり、全軍戦闘配置、これは訓練ではない、繰り返す……」
狂ったように通信技師が絶叫をする中、第三騎士団旗艦<サンダルフォン>ブリッジでは混乱がいまだ尾を引いていた。
初撃を成功させた<Dragon d'argent>は、ゆっくりと次なる獲物を求めて移動を開始している。
「敵艦隊、左右に展開します!」
「急速旋回、ヤツラの尻尾に喰らい付け!」
怒号のような声で指示を下すギュスターヴは、しかし自分の艦隊だけでは満足な結果を出せないだろうことを理解していた。
何故なら、両軍の距離があまりにも近いせいであった。この距離で攻撃すれば、相手の爆発にこちらが巻き込まれる可能性が高い。
よって攻撃力の高い兵器が使えないということは、戦場では非常に行動を制限されることになる。
かといって、不用意に間合いを広げることは避けなければならなかった。
移動に主眼を置いた行動は、それだけ無防備な時間となる。別の艦隊が攻撃をする間、自軍もまた攻撃可能な圏内にまで離脱することが、現状における最善の策であるとギュスターヴは判断した。
「緊急通信を出せ、誰でもいい、救援を…… このままでは伏兵にやられるかもしれんぞ!」
先刻のように、各種セキュリティシステムが満足に働かない今、何処に敵が潜んでいるのかという強烈な不安も付きまとう。
まるで鳥が翼を広げるように、左右に艦隊を散開させていく<Dragon d'argent>に縋るように、第三騎士団もまた移動を開始。二手に分かれた敵軍を各個撃破すべく、より外側の隊列の最後尾に続くように旋回したときであった。
出し抜けにブリッジに警報が鳴り響く。
「今度は何だ!?」
「<サンダルフォン>攻撃照準固定…… な、何者かが攻撃を!」
信じられない、といった表情のギュスターヴがモニターを見上げる。
逆Uの字に配列した六つの騎士団。その内部に出現した<Dragon d'argent>を示す赤い光点は、二つに分かれてゆっくりと遠ざかっている。
うち片方に、自分たちの第三騎士団が肉薄しているはずなのだ。
旗艦<サンダルフォン>は最後列。前線では既に凄まじい攻撃の応酬が開始されているというのに。
「攻撃まであと15秒…… ダメです、回避できません!!」
何処かにいる伏兵に喉元に刃を突きつけられながら、喘ぐ操縦士。
「フィールド展開、さっさとしないか……!」
「攻撃対象確認…… た、大将!」
最後の言葉は、最早報告ではなかった。
予想を超えた展開に、完全に恐慌状態に陥った男の叫び声は、驚愕の事実を伝える。
「攻撃対象、<Taureau d'or>第四艦隊からです!!」
「白銀の龍が出現したというのか」
前線より一千キロを隔てた馬蹄の対岸で、低く呟くのは第六騎士団<翡翠硬玉>元帥ゴーティエ。
「現在、第三艦隊より入電がありました。至急援軍を請うとの内容ですが」
「ふん」
鼻を鳴らし、ゴーティエは腕を組んだまま動かぬ。
「おおかた懐に飛び込まれて狼狽しているところか……」
ゴーティエは頭の中で、いくつもの算段と策略のそろばんを弾く。
「いいだろう、各艦に伝えろ。これより本隊は直線軌道で第三騎士団を支援する。操縦士、移動までの計測時間を出せ」
モニターの上では、敵軍を示す赤い光点と、友軍を示す緑色の光点が激しく交錯を繰り返している。
今回の件で大きな貸しをつくっておけば、今後何かと役に立つだろう。第三騎士団大将のギュスターヴは無能な男ではあるが、人脈だけはどのような秘策を抱えているのか、誰にもひけを取らないだけのものを築き上げている。
その瞬間までは、彼の脳裏に思い描いていた青写真は、確実に現実のものとなるはずであった。
しかし、混乱と暴虐の王は、確実に戦場を支配していた。モニター上の友軍の配列が、明らかにおかしい。並ぶように配列されていた艦隊の一部が、自分たちの進路予測ポイントを遮るように側方から割り込んできているのだ。
この緊急時に何を考えているというのだ。
回線を開かせ、騎士団に警告を叩きつけてやろうと指揮官席のコンソールに手を伸ばしかけた時。
僅かに先んじて、操縦士からの報告がゴーティエの精神を激しく揺さぶることとなる。
「元帥、ただいま第五騎士団大将セヴラン様より入電、即時戦略行動を停止せよ、さもなくば攻撃も辞さないとのことです……!!」
混乱はゆっくりと、破滅を導く。
その光景を遥かな上天より見下ろしていたニーナは、形の良い爪で限定通信回線を開く。
それは通常のように公開された周波数による任意受信が可能なタイプではなく、送信側から受信者を限定して発信できる特殊なものであった。
通信先は全部で三つ。
<Taureau d'or>第四、第五騎士団旗艦、及び<Dragon d'argent>八咒鏡師団旗艦。
「我はS.A.I.N.T.のニーナ・ジュエルロック。第二陣、<Dragon d'argent>天叢雲剱師団および八尺瓊勾玉師団はこれより百三十秒後に到達せん。全ての電子計測器、結界による探査は不可能、出現ポイントは第五騎士団の左舷。繰り返す、我はS.A.I.N.T.のニーナ・ジュエルロック……」