第二十九章第二節<Battle Cry>
「……そういえば、あんたたち」
軍事演習が開始してから半時間。部下の動きも一段落し、現在は結界を維持しつつ抵触する情報を逐一チェックする段階に入っている。
ニーナは左腕を<バロール>のターミナルコンピューターに接続したまま、誰にともなく話しかけた。
「二週間前の軍法査問会の内容を知ってるかい」
ニーナの言葉に、肯定の返答はなかった。
無理もない。一介の軍人に、騎士団頭領が列席するような査問会の名を借りた裁判の内容までが知らされることはない。
無論、ニーナもまた、答えを期待している問いではなかった。
「第二騎士団と交戦していた、<Dragon d'argent>の艦隊を、テレンス元帥が拿捕したんだよ」
結界全体を己の感覚と同化させつつ、思考を乖離させて言葉を紡ぐ。
「その中に、<Dragon d'argent>が拘束していた一人の男がいたんだ。名前を、ヴェイリーズ・クルズ」
聞いたことがある、という反応は誰からも返ってこなかった。
「まあ、知らなくて当然だよ。ヴェイリーズは、そんなに有名な人間だってわけじゃない」
一度言葉を切り、そしてニーナはモニターに視線を向ける。結界の端のほうを、隕石群が擦過していくのを感知したからだ。ゆっくりと無機質な岩石が通り過ぎていくのを感覚として受け取りながら、ニーナは続けた。
「だけど、彼は<射手座宙域の聖歌隊>の生存者だったんだ……あの事件なら知ってるだろう?」
軍部ではその単語を口にすることすらはばかられているため、部下たちは一様に動揺を見せた。
誰もが手を止め、ヘッドホンを耳からずらし、何対もの視線がニーナに集まる。まるで玉座に坐す女神のように、ニーナはゆっくりと微笑み、そして先を続けた。
「何だい、そんなに驚くんじゃないよ」
<射手座宙域の聖歌隊>が、軍部でも禁句になっているであろうことくらいは、ニーナでも知っている。分かっていて敢えて触れてみた反応の大きさに、思わず苦笑を漏らし。
「まあ、そんなわけで、ヴェイリーズはあの地獄を行きぬいたわけさ……その張本人が生存して、目の前に現れた。そんな男に、軍部は何をしたと思うかい」
そのとき、ニーナの意識が一瞬、結界に注がれた。
外周部に抵触する信号があったのだ。
結界の精度はほんの僅かなぶれも見逃さない。大きな質量の何かが結界に触れた反応は、すぐさま<バロール>のコンピュータにも転送される。
それまで黙って聞いていた操縦士の一人がヘッドホンを耳に当て、その詳細を探ろうとモニターに向き直る。だが彼の注意が収束するよりも早く、その反応は消失した。
「軍部はね、ヴェイリーズが拘束中に催眠、洗脳された虞ありとして、薬物による脳と筋肉の破壊を命じたのさ」
話は続く。
操縦士は信号とニーナの話と、どちらを優先すればいいものかと戸惑いの表情を隠せない。だが当のニーナは、そのような反応など知らぬ振りをして、言葉を続けている。
「確かにヴェイリーズは保護されたとき、催眠呪詛を幾重にもかけられてた……だけど、あんたたちはこの処断を、どう受け取るんだい」
接続された左手で何かを操作しながら、ニーナは抑揚のない声でしゃべり続ける。
「あたしはね、あたしは……少なくとも、一人の人間だ」
「ニーナ様!」
今度こそ、操縦士は声を上げた。先刻より、甚大な質量が立て続けに結界に接触を繰り返している。センサーの誤作動などでは決してない。
「あたしはね」
「結界外周部に波長攪乱信号、何者かの侵入を確認しました!」
「自分の犯した罪を、人の命を踏み躙ってまで、隠し通すほど堕ちちゃいない」
ぎり、と奥歯が軋る。
操縦士の目の前で、それまで確実に結界内に侵入していたはずのユニット表示が消滅した。先ほどと同様に、だしぬけに。隕石群であれば恐るべき速度で擦過していったのだろうとも考えられるが、これはどうしたことか。
これでは、各艦隊への伝達が出来ない。何故なら、騎士団の艦隊それぞれが持つセキュリティネットワークは、この<バロール>を中心としている構造だからだ。
このままでは、侵入者を艦隊に知らせることができない。
「ニーナ……様」
「侵入者はいない」
唇を歪め、ニーナは誰もが予想だにしていなかった一言を口にした。
「しかし、ニーナ様!」
「煩いね」
鋭い眼光を瞳に宿し、ニーナは操縦士たちを睥睨する。ここに至り、操縦士たちは確信した。
信号は消えたのではない。ニーナが意図的に削除しているのだ。
「何のために、あんたたちを、選出したと思っているんだい」
まさか、という狼狽が操縦士の間を駆け抜ける。唐突には信じられないことではあるが。
ニーナの行動は明らかに、信号の改竄であった。
今こうして、結界からの報告履歴を閲覧できる自分たちにしか分からぬ階層での情報改竄が行われている。
それが意味するものとは、即ち。
控えめなノックの音に、メイフィルは目を覚ました。
顔を上げると、どうやらいつの間にか腕に頭を乗せて眠ってしまっていたらしい。机の上には煌々と光る電灯がそのままになっており、つい先刻まで弄っていた機械類の細かい部品やらケーブルやらが乱雑に、しかし彼女にだけは分かる配列で広がっている。
起き上がったままの姿勢でしばらく虚ろな視線を彷徨わせていたメイフィルは、二度目のノックの音にようやく反応した。
まだ呆けた顔のまま、艦内の部屋のドアを開けると、廊下のライトの中にいるフィオラが目に入った。
「ごめんなさいね、夜遅くに……起こしちゃった?」
「いえ、いいんですけど……どうしたんですか?」
ドアをさらに開け、廊下の様子を見回すメイフィル。
だがどうやら、訪問者はフィオラ一人だけのようだった。漂流から数日、なんとか体調を回復させた彼等は、<Dragon d'argent>艦隊に率いられる形で元通りの艦船によって同行していた。
「実はね、あなたに見てもらいたいものがあるの。これからちょっと……いい?」
メイフィルは頷くと、一度手早く身支度を調えてから廊下に出た。
二度目にドアを開けたとき、フィオラの表情は何処か泣き出しそうに見えた。
おかしいと思いつつも、それを口に出さずに胸の中にしまいこむメイフィル。
フィオラは困ったような顔でもう一度謝り、そして先導するように廊下を歩き出した。
夜更けの訪問、それに「見せたいもの」というひどく曖昧な表現。そのせいで、メイフィルはフィオラの変調よりも自分を待つその「何か」に対して、様々な思索を巡らせてしまうことになる。
だが、元々大きな艦船ではない。
フィオラが向かった先は、同じ客室棟にある一室。ネームプレートの外されたそこは、メイフィルがよく知る部屋だった。ドアの前で足を止め、フィオラはゆっくりと向き直る。
「この部屋、ですか」
自分の声も震えているな、とメイフィルは妙に冷静に考えていた。何故なら、そこは、ヴェイリーズの私室だったところだからだ。
「ええ、そうよ」
フィオラはポケットからカードキーを取り出す。
「見せたいものって……何なんですか」
「見せたいもの、じゃないの……見てもらいたいもの、よ」
律儀に訂正し、そしてフィオラはドアのロックを外した。
「メインモニターにて目視確認! 艦隊接近中です!!」
悲鳴にも似た声が第三艦隊旗艦<サンダルフォン>ブリッジに響き渡る。
動揺は一瞬にしてブリッジ全体に伝播する。
無理もない。一刻前まで、<バロール>から中継されるデータに侵入者の予兆は一切なかったのだから。
「ニーナは何をしている!? ……該当船舶、出せ!」
第三艦隊<珊瑚>のギュスターヴ大将の怒号が炸裂する。
だがしかし、その正体は報告を待たずとも知れることとなる。
自動航行システムが混乱するほどの至近距離に、出し抜けに出現した艦影。否、それは瞬間転送されたものではありえない。レーダー、結界システムの全てを如何なる手段によってか無効化し、それは姿を現したのだ。
白銀の龍の紋章、<Dragon d'argent>。
そのあまりに巨大なる艦隊は、唖然となる第三艦隊を尻目に、嘲笑うかのように砲門を旋回。
射線の先にあったのは、第四騎士団<藍玉>。
一瞬の間を置いて、<Dragon d'argent>の光学兵器は第四騎士団を直撃した。