第二十八章第二節<Voiceless Shrieking>
力なくシーツの脇からだらりと腕を垂らしたまま、操縦士が担架に乗せて運ばれていく。左腕に白い腕章を付けた治療兵が次々と手馴れた動きで動けぬ者を船外へと運び出していく。
否、正確には<Dragon d'argent>の艦の医務室に運んでいるのだ。
小型運搬艇に幾度かに分けて収容され、治療兵と共にあちらの艦の病室へと機械的に処置されていく。その光景を、背もたれに上体を預けたままのラーシェンは、ただじっと動かずに見つめていた。
いくら体力や身体能力がずば抜けていると言っても、半月の間飲まず喰わずでいられるというわけではない。常人よりも過酷な状況に耐えられるといっても、それは基本的な生命活動においては殆ど差異はない。食糧もなく、飲料水も底を尽き、また果て無き苦痛の中で、ラーシェンといえど肉体的、精神的にかなりのダメージを受けていた。
それでもこうして、かろうじて意識を保っていられたというのは、まさに鍛錬の成果であると言えよう。
とはいえ、全盛期に比べれば衰弱の色は隠せない。今も虚ろな視線を天井に投げかける操縦士を一人見送ったところで、ラーシェンは自分に近づいてくる足音に意識を覚醒させた。
首だけで振り向いてみると、そこには明らかに上層階級であろうと思われる男が一人、こちらをじっと見下ろしていた。
「……ラーシェン・スライアー、だな」
「お前は?」
男は銀の髪をし、また右目に当たる部分には醜い裂傷があった。
肉が引き攣れ、その傷がかなりの深手である事を示すかのように、瞼はぴくりとも動かない。見慣れぬカーキ色の軍服を着てはいるが、その男が他の軍人とは何か違うところがある、とラーシェンの勘は告げていた。
それがすなわち身の危険に直結して感じられないところを見れば、さしあたり救援に偽りはないという意味ではあるが。
残った左眼は何処か哀しげに、そして同時に微かな憤りをも宿したまま、ラーシェンを見下ろしている。
「<Dragon d'argent>八咒鏡師団長、クレーメンス」
「……礼を言う」
「お前の艦の通信技師が応答してくれなければ、救援は出来なかったところだ」
表情豊かにクレーメンスは肩を竦めてみせた。
「通信技師……?」
「女の通信技師が一人いるだろ? 若いのに見上げた根性だ」
クレーメンスはラーシェンに、懐から取り出した銀色の小さなパックを放った。無論それを受け止められるだけの反射速度はなく、瓶はラーシェンの膝の上に落ちる。
「栄養剤だ、飲んどけ」
力の入らない指でキャップを捻ると、中からはふわりと湯気が昇ってくる。数種類のプロテインを混入させ、液状にして吸収効率を高めた栄養剤であった。肉体や内臓が衰弱しているときは、下手な食事よりもこうしたもののほうがはるかに滋養がつく。
それを一口含むラーシェンを見ながら、クレーメンスはブリッジの機材にもたれたまま話を続ける。
「ともかく、そいつに礼を言っといてくれ。そいつが回線の前にいなかったら、てめえら全員衰弱死だ」
女性で通信機器を扱える人間はメイフィルしかいない。
確か数日前から自室で寝込んでいるとは聞いていたが、何かの拍子でここに来ていたのだろう。
だが、ラーシェンの疑問はそんなことよりも、他の点に集約されていた。さらに一口を飲み干したラーシェンは、施しを受けつつも警戒を解かぬ眼差しでクレーメンスを見上げ。
「何故、助けた」
「勘弁しろよ」
ラーシェンの問いに返って来たのは、クレーメンスの苦笑であった。
「命救ってもらった相手にガンくれてんのかよ?」
「……お前らには」
自分たちは、<Dragon d'argent>の軍隊と交戦しているのだ。それによって、幾許かの戦死者も出ているというのに。
怨恨こそあれ、わざわざ救援活動をする目的が分からない。
正規軍でもない自分たちは、情報源としての価値すらないだろう。それならば、どうして救出するというのだろう。
「愚問だぜ、ラーシェン・スライアー」
わざとフルネームを呼んでみせ、クレーメンスは笑った。
「俺こそお前らに聞きてぇんだ」
手をつき、ラーシェンの方を向いて、クレーメンスは身をかがめた。
「どうして、あいつを……ヴェイリーズを取り戻そうとなんざしやがった?」
雰囲気が変わっていた。
クレーメンスは、本当に分からないのだろう。口調といい、取り巻く空気といい、全てが今までと異なっている。
「お前らに渡したところで、せいぜいが外交の切り札として使われるだけだ……」
「莫迦野郎」
弱々しく答えるラーシェンの言葉を遮るように、小さく、しかしはっきりと呟くクレーメンスの表情から、柔らかい色は消えていた。
「<射手座宙域の聖歌隊>の生き証人を、あいつらが生かしとくと思うのかよ?」
予想だにしなかった単語がクレーメンスの口から漏れ、ラーシェンは驚きに目を丸くした。
「……そこまで」
「まあ、そういうこった」
真剣な話を交わす時間は終わったらしい。
「とりあえずはてめえの躰の心配しとけ。あいつを助けるなら……」
「ヴェイリーズなら、もうここにいる」
まるで深夜の廃墟のような深い闇を湛えた眼差しで、ラーシェンはひたと見据える。
「……薬物で筋肉と脳を破壊された……もうあいつは、廃人としてしか生きられん」
車椅子に座ったまま、満足な言葉すらしゃべれず。生命維持に必要な脳幹を破壊させずに残したということは、同情では有り得ない。
死者に鞭打つが如く、廃人となり一人では生きられぬ躰にし、少しでも苦痛を長引かせようという残酷な処断なのだろう。
かつての彼ならばともかく、今では食事排泄の類に至るまで、その一切を介助なしに行うことは出来ない。
生まれつき、そうした障害を持つ者ならば別であるが、人為的に生み出された障害は、当人にとっては地獄以外の何者でもないのだろう。それまでとは生活環境が一変し、当たり前だと思われていた全てが否定される世界。自ら命を断とうとしても、指一つ己の意のままには動かせぬ。
そうした境遇の中で、それでも生きなければならぬということは、想像を絶してあまりある苦痛であろう。
事実を耳にしたクレーメンスの表情が凍る。呆気にとられたような顔でラーシェンを凝視し、そして彼の言葉が真実であると分かると、何かに耐えるように歯を食いしばり。
そして、力任せに機材に拳を叩きつけた。
前髪が揺れ、クレーメンスの表情を隠す。
己の無力さへの悔恨と、<Taureau d'or>への激昂と。
両者の綯い交ぜになった感情に衝き動かされそうになる肉体をなんとか押しとどめ、クレーメンスは荒い息を吐く。
「今、担架を持ってこさせる」
まるでそれ以上の会話を自ら打ち切るように、クレーメンスは低い声でそう呟く。
「てめえも少し眠れ。詳しい話はそのあとだ」
旗艦<石凝姥神>執務室に戻ったクレーメンスは、そこでようやく溜めていた息を深く吐いた。まるで肺の中に、澱のように沈殿した不快な淀みをすっかり拭い去るとでもいうように。
無意識のうちに息を詰めていたのか、首を回すと予想以上に大きな音が鳴った。
軍服の襟元を緩め、椅子に座ったクレーメンスは、手を伸ばして通信機器を操作。
卓上に内蔵された投影式のディスプレイが立体的に空間の中に映し出され、一秒とかからずに高精度の画面を構成する。
通信先は戦艦<饌速日神>。コール開始から数秒で、相手先が応答する。タイムラグなしで画面が切り替わり、その向こうに銀髪の女性が現れた。
「よぉ」
クレーメンスが気さくな口調で呼びかける相手は、<Dragon d'argent>八尺瓊勾玉師団長マティルデ・ミーゼス。
「回収終わったぜ」
「お疲れさまでした」
目元の鋭いその女性は、ともすれば視線だけで相手を圧倒させうるだけの気迫をその身に有しながら、クレーメンスの言葉に口元をほころばせた。
「状況は」
「まあひでえもんだが、逆に死人は一人もいねえ……大したもんだ」
「それは何よりでした」
当たり障りのない言葉を口にするマティルデに、クレーメンスは苦笑しながら傍らに置いた湯気の立つカップを手にする。
「心配すんな、超長距離通信に偽装呪術を施してある。ちょっとくれえのハッキングじゃあ破れねえよ」
その言葉はすなわち、自分たちの会話が限りなく傍受されてはならぬものだということを暗に伝えていた。彼の意を汲んだマティルデは、形の良い眉を僅かに寄せる。
「……と言いますと」
「例の話、本当に信じてんのか」
カップの中身を一口啜り、そして切り出す。明確な単語を口にしていないにもかかわらず、マティルデの表情が凍った。
「難しい質問をしてくるのね」
じっと見つめてくるクレーメンスに、やや表情を崩したマティルデが苦笑した。
「だけどまあ、分かりやすくもあるんだけれどね」
「で、どっちだ?」
「保留、ってことにさせといてくれる?」
微笑を浮かべるマティルデに、クレーメンスは背もたれに身を預けながら大きく息を吐いた。
「なんだよ……結局、切り込み隊長は俺って奴か」
「あら、貴方にだって無理強いはしてないわよ」
小首を傾げ、マティルデは指を折りながら言葉を続ける。
「六騎士団の陣営、セキュリティシステム、その他の周辺宙域の状況、そこらへんのことが分からないのに、どうやって作戦を立てるっていうのよ」
「分かっているのは、紙切れ一枚だけ、か」
「そういうこと……けれども」
マティルデは執務室の椅子から立ち上がり、身を屈めて画面に何かを近づけた。
美しい筆跡ではあったが、殴り書きのように遺されたそれ。
「情報源としては、これ以上ないくらいに正確なものだわ」
<Taureau d'or>軍事演習 六騎士団ならびに王族関係者 参加予定。
マティルデの手元にあるメモには、そう綴られていた。