第二十八章第一節<Coffin Ship>
吸い込めば、そこには微細な腐臭を誘う粒子が漂っているのではないか。そう思わせるほどに淀んだ空気は、汗と、垢と、下水と、死の匂いがした。ゆっくりとベッドに横たえた躰を起こすと、たったそれだけで強烈な疲労感が全身を包む。ベッドサイドに置いた眼鏡に手を伸ばすこともせず、メイフィルはただ静かに目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。
体温で温まったシーツに触れる指に、メイフィルは新鮮な驚きを感じた。
私の躰は、まだ生きている。こうして体温を維持し、躰を動かせるだけのエネルギーを生み出している。それは有り難くもあり、また同時に虚しくもあった。
回廊転送から今日で十一日目。既に備蓄の食糧は底を尽き、必要最低限の水と携行食だけで命を繋いでいると言ってもよかった。
だが、それは生物学的な機構についての話だ。たとえ今日を生き延びても、明日に何が待っているのか。いっそ、このまま目覚めなければよいのに、という自暴自棄に涙を流しながら眠りに就いたこともあった。
繰り返される淀んだ時間。緩慢に忍び寄り、希望を貪り喰らう絶望という名の魔物。もはや乗組員の中には、栄養失調のために床に伏している者もいた。酒と暴食がたたり、起き上がれなくなった者もいた。そうした者が一人出るたびに、次はわが身という不安と焦燥が肉を蝕む。
もはや精神は停滞し、それが艦内にまるで伝染病のように蔓延っていた。もう一度、ベッドに身を横たえたいという願望が頭をもたげるが、それでは何の解決にもならないとメイフィルは己を叱咤する。
行動を起こしたところで、何かが変わるという保証はなかったが。のろのろとした足取りで起き上がり、ジャケットを羽織る。可能な限りの省熱量モードにしてあるため、艦内は息が白くなるほどに寒い。
廊下に出ると、不気味な静寂が支配していた。静かに閉ざされたそれぞれの個室の中で、一体どのような絶望が人々を苦しめているのか。
否、今こうしているまさにそのとき、音もなく息を止めている者もいるのかもしれない。時が止まったような、否時が循環する呪われた牢獄で、一縷の望みすら断たれ、ただ緩やかに訪れる死神の歩みを耳にしつつ。
何等抵抗することもできず、ただ命を刈り取る鎌の刃がゆっくりと肉を断ち、首筋の血管を切り裂いていくのを、じっと待つかのように。そんな妄想に一つ身震いすると、メイフィルは手摺に捉まりながら、ブリッジを目指してゆっくりと歩いていく。
いつもなら気にもならない距離が、今では果てしなく遠く感じられる。
最後にブリッジに行ったのは、昨日だったか、一昨日だったか。時間の感覚さえも喪失し、混乱した神経は生死の境さえも分からなくさせている。今このまま倒れたとしても、メイフィルはそのことにすら気づかないままであろう。
一歩一歩を引き摺るように進め、やっとの思いでドアの前まで辿り着く。
踏み出した足の圧力を床に仕込まれたセンサーが感知し、ドアが開く。
機械は疲弊しない。動力が供給されている限りは、それは正常に動作し続ける。ドアがいつもどおりの動きと音で開く、ということが、メイフィルに一つの錯覚を生んだ。
もしかすると、倒れていたのは自分だけなのかもしれない。何か悪い風邪を引き、数日寝込んだせいでこんなにも衰弱しているのかもしれない。ドアの向こうのブリッジには、いつもどおりの操縦士とラーシェンとフィオラと、そしてヴェイリーズがいて、自分を笑顔で迎えてくれるのではないか。
そんな願望に支配された妄想は、しかし瞬時に姿を消した。
人気の無いブリッジ。コンソールの前で、まるで死んでいるように動かないまま、ぶつぶつと小さく呟きを続けている男の横を過ぎ、メイフィルは通信端末の前に腰を下ろす。
受信履歴は空白のままだ。このままでは、この艦はいずれ死ぬ。その運命の刻は、そう遠くない未来に訪れる。
残酷な女神の織り成すタペストリーには、死出の旅路につく船の姿が描かれているのだろうか。
舳先に並ぶ死者の顔の中には、自分たちの虚ろな表情が並んでいるのだろうか。
いつの間にか伏せて眠っていたメイフィルは、定期的に耳に届く電子音に意識を取り戻した。夢を見ていたのかどうかすらわからぬ、混濁した意識は、覚醒したと同時に自分がどうしてこの場所にいたのかという記憶すら見つけ出せない。
ややあって、自分がブリッジで寝入ってしまったのだということを思い出し、冷たいコンソールに手をついて起き上がる。
何時間眠ってしまったのだろうかと考え、すぐにその問いが意味のないものであることを思い出す。
そうだ。私はもう、死神の漕ぐ小船に乗せられているのだ。
まるで希望が淀み濁ったような溜息をつくメイフィルは、すぐ近くで点滅しているオレンジ色のランプに気づいた。
思考が働かない。力が入らない。
だが最後の意識が、それを外部通信の受信を知らせるランプであることを認識させた。
必死で瞼を押し開けながら、メイフィルは通信回線を開く。
「……応答を願う。我は<Dragon d'argent>八咒鏡師団である。貴船の応答を請う。我等の目的は拿捕にあらず、貴船の救出にあり。繰り返し応答を願う。我は……」
男の声だ。
一定の間隔をもって繰り返される言葉。
こちらのマイクのスイッチを入れ、メイフィルは何とか応答のメッセージを送ろうとする。
だが満足な言葉が出てこない。頭の中では必死に組み立てる言葉が、乾いた唇の間からは小さなうめきとしてしか、発せられない。
だが、しゃべらなければ。このまま通信が切れてしまえば、自分たちは本当に飢えて死んでしまうのだから。
「こちら、は……フィル、メイフィル……です……お願い、たす……」
「我等は<Dragon d'argent>八咒鏡師団である、応答を確認した。これより貴船への接続を行う、ハッチの開放を……」
その言葉を、メイフィルは最後まで聞いていることができなかった。
夢うつつな意識の中、なんとか何かの操作を行ったことまでは覚えている。
だがその直後、メイフィルの思考はまるで幕が下ろされたかのように、唐突に暗転した。