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花が散る、その夜に。  作者: 花の巫女
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『素』

「君は」


この沈黙を破ったのは、驚いたことに丞だった。けれどその声は誘うような甘い声でも、束縛するような鋭い声でもなく、軍人らしいはっきりとした語気で低い声色である。

ずっと無言だった丞が声を出したので千里は思わずびくんと体を揺らし、身構えた。

そんな千里の様子に気付いた丞は、今度はゆっくりと、穏やかな口調で言葉を続ける。


「君は、好きでもない奴と寝れるのか?」


それは至極単純な質問であり──陰間にとっては聞いてはいけない禁断の質問だった。

世の中で陰間という職業がどんな立ち位置にあるかは、千里自身、身をもって知っている。陰間だけでなく遊女や踊り子も含め、自身の身を売る─所謂水商売で金を稼ぐ職は低俗だと蔑まれ差別され、表社会には出られない。

そして、そこで働くのは大体がオメガだった。

彼らは自らの意思で裏の界隈に入ったわけではない。そうせざるを得ないのが大半を占めている。大方、実の親や人身売買専門の商人に売られることによって。


それ故に、彼にとってその質問は愚問であった。

“好きでもない奴と寝れるのか”──違う。寝れるか寝れないかという私情論ではない。そうしないと生活が成り立たない。生活していけなかったら生きることも出来ない。

夜伽とは彼らにとっては死活問題に値することなのだ。

それをアルファであろう軍人に問われたことにどうしようもなく腹が立って、千里は仕事中であることを完全に忘れ、苛立ちを交えながらその問いに答えた。


「寝れるね。それが僕らの仕事だから、そうしないと金が入らない。…アルファにはアルファの生き方があるように、オメガにはこういう汚れ仕事が似合うんだよ。」


先程まで『夢見蝶』とさえ謳われていたほど美しい口調だった千里が年相応の話し言葉で返したことに目を見開いた丞だったが、すぐにふんわりとした笑顔を浮かべる。


「そっちの口調の方が、君らしくて良い。」


何を言い出すかと思えば、客らしくない言葉を発する丞。

普通なら陰間が客に向かって、まして大日本帝国陸軍の中尉である人物に向かってため口をきくなど失礼極まりない無礼であり、激怒されても殴られてもおかしくない状況の中で、丞はただ、安心したような表情を千里に見せた。


「…も、申し訳ございません!無礼なことを申しました。」


千里ははっと我に返り、慌てて頭を下げて謝罪をする。

とんでもないことをしてしまった。中尉と言えど陸軍のトップにいることには違いない。そんな彼に自分の身の上のことを言われただけでこんなにも取り乱すとは思いもしなかった。これを機に軍人相手の商売が出来なくなるかもしれない──

最悪の事態をいくつか想像し、全身から血の気がひくような絶望感に呑まれた。

しかし発せられた言葉は、その想像をあまりにも簡単に打ち砕いてしまうものだった。


「すまない、無配慮に君を侮辱してしまった。君が怒るのも至極当然のことだから君が謝罪する理由はない。」


「し、しかし、陰間という身分ながら中尉殿に汚らしい言葉を…」


「私といるときは、無理に気を遣わなくてもいい。私はそれを気にしないし、寧ろそっちの方が良いのだが、どうだろう」


千里はしばらく熟考したのち、ゆっくりと口を開く。


「……それは、聞き入れ難い要望でございまする。」


どう頼まれたところで陰間にとって客は客であり、客の相手をすることは仕事の一環なのだ。故にそこに私情を入れ込んだり、別の感情を持ってしまうことは絶対にあってはならない。実際この店でも客と特別な関係になって駆け落ちした陰間や遊女は幾人かいるが、大体そのあとは悲惨な末路を辿っていると聞く。

結局自分らは使い捨ての性欲処理道具でしかなく、相手に本気になった方が人生終わると15という若い歳で悟った千里は、これまで一度も見受け話にも駆け落ちの話にも乗ったことがない。

客は皆等しく平等に、そう心に掲げている為に彼一人を特別視してしまえばそのすべてが崩れると分かっていたのである。


「うむ…。客として頼んだら、君は聞き入れてくれるのかな。陰間は客に逆らえない。だとしたら私の願いも受け入れてくれるだろう?」


崩れると、分かっているのに。

どうにも彼の低い声色は、千里の心の内に響くように一言一言重くのしかかる。

しばらくの間脳内で激しい葛藤が起こったが、しばらくしてようやく腹を決めたのか、返事をする際には諦めたような喜んでいるようなそんなやや微笑を浮かべながら口を開いた。


「……狡い御人だ、あなたは。陰間が客からの要望には絶対に答えられない訳がないと、知っている。」


「軍人だとこういう話術がやけに長けるんだ。」


冗談交じりに楽しそうに話す丞を見て、ついその笑いが移りそうになるが、それよりも気になることが頭に浮かんだ。

それは、自分を睨み付けるように見つめていた彼の瞳。

まるで汚らわしいものでも見ているかのような鋭い視線は少なからず千里の心にちょっとしたかすり傷として残っていて、あれは完全に嫌悪を含んだ目だと認識していた。


「あなたは僕のことがお嫌いなのだと思っていたけど。」


「えッ?何故そう思われたのだ?」


「だって、ずっと僕のことを睨んでたじゃないか。」


「そ、それは………」


そう千里が答えると、丞は急におどおどと動揺し始めて目線が右往左往し始める。顔が真っ赤になったり、かと思ったら青白くなったり。顔芸の如く変幻自在に変わっていく丞の顔を見て、千里は胸が温かくなった。


─この人はどうしようもなく、正直な人でいらっしゃる。



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