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花が散る、その夜に。  作者: 花の巫女
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『夢見蝶』

千里が華凛の間に着いたとき、既に客は食事や踊り子たちとの戯れを楽しみ、半分ほど出来上がっている状態であることが中に入らずとも察せる。障子の中から聞こえる4.50代らしき男たちの下卑た笑い声と美しい琴の音があまりにも相反するもので、千里はつい皮肉な笑みを浮かべてしまった。


─世の中、こうも違うものか。


今まで自分の立場をあまり疎ましく思ったことはないが、華凛の間の前に立つときだけはどうしようもなく立場の違いを酷く意識してしまう。もし、自分が貴族や軍人だったなら。もし、アルファとして生きられたなら。どれだけこれらの願望を抱いたことか。そして、その度にどれだけ希望を捨ててきたことか。自分が虚しくなるだけだと分かっていながらも、考えても仕方のない愚問がぐるぐると頭をめぐり、彼の首を絞め続けた。



「失礼致します」


丁寧に挨拶をして、部屋の中へと足を踏み入れる。瞬間、酒の香りと男性特有のむさくるしい匂い、それから間を持たせてくれた踊り子の甘い香りが混在した吐き気を催すような異臭が強烈な刺激として千里の鼻に遠慮なく入ってきた。彼は思わず一瞬顔を歪めてしまったものの、すぐに営業用の媚びた笑みを浮かべて客をもてなす。それが彼の仕事へのプライドであり、“生きる価値”にも等しいものであるのだから。


指名した陰間が来たということで大日本帝国陸軍、総勢6名の男たちは皆一様に感嘆の声をあげた。

その中には常から千里をよく指名する常連客や初見の客までいて、千里は内心、「今日はいい稼ぎになりそうだ」と喜んだ。何故ならこういう輩は大抵、こちらが少し催促すれば普段誰も飲めないだろう高級な酒などを躊躇いなく飲んでくれる。そう思うと先ほどまでの彼らに対しての憂鬱な気分は見事に晴れ、今日は特別なおもてなしをしなければならないなと気合いを入れた。

特に歓喜に満ち溢れた表情をしたのは、大佐─今日の顔ぶれの中で最も高いであろう役職─である三船という男である。よくこの『桜蘭楼』を利用していて、無論、千里の常連客のひとりであり、今回彼を指名したのもこの男だった。


「久しいな、千里。今夜も楽しませてくれたまえ」


「三船様、ご指名して下さり誠に嬉しゅうございます。是非とも満足して頂けるよう、全力を尽くします」


「それは期待してるぞ」


千里のいつもより爛々とした目の輝きを見てにっかりと笑った三船であったが、実際はその目に多少の嫉妬を覚えた。自分を持て成す時よりも、夜伽の最中の時よりも、生き生きとした表情を見せる千里。自分はこんなにも目の前にいる麗しい陰間にとって取るに足らない存在だったのかと半分ほど怒りに近い感情が沸々と腹の中で疼いてくる。

しかしながら、この男はとんでもない勘違いをしていることに気付かない。

千里がいつもよりやる気に満ちているのは、他の何でもなく『金』のためであるということを。



立ち居振る舞いに関しては遊女よりも美しいその姿に、その場にいる誰もが心奪われ魅入ってしまった。真っ白い生地に真っ赤な椿がよく映えていて見た目はとても清らかなはずなのに、どうしてか千里が着ると妖艶なイメージに早変わる。そのくらい彼には異常なほどに人を惹きつける魅惑力を持っていたのだ。


「早速だが千里、ひとつ踊っちゃくれないかい?」


そう頼んだのは陸軍・少佐の梶井。がっしりとした体付きをしているが、とても温厚な笑顔が特徴的な男だ。


「仰せのままに。」


いつの間にか千里が来るまでの時間稼ぎとして彼らの相手をしていた遊女や踊り子はいなくなっていて、この部屋にいる接待者は千里含め3名の陰間と琴の演奏者だけだった。

千里がすうっと息を吸った途端、上品な琴の音が響き、それに合わせて袖口を優美に動かしていく。決して複雑な踊りではないはずなのだが一つひとつの動きが華麗故に人々は目を離すことが出来ず、今までずっと酒を浴びるように飲んでいたような男でさえも一旦手を止めて優艶な舞を魅せる陰間に釘付けになってた。

彼が舞う度に黒い髪がふわりと浮かび、蝶の如く飛び回る。

そんな彼は、巷でこう呼ばれていた。


「さすがは“夢見蝶”の舞だ。美しい!」


演奏と共に踊りは止まる。魅入っていた男達は一瞬の間を置いて、盛大な歓声と拍手を彼に送った。その返しに満足したのか、千里は淑やかに微笑み、舞台を降りる。



ふと、そのとき。

部屋の端で無表情に千里を見つめる男が目に付いた。

その顔は怒っているのか、関心がないのか、はたまたあれでも喜んでいるのだろうか分からなかったけれど、どうやら良い感情は持たれていないと千里は本能的に感じ取った。その証拠に目を合わせた途端にその男は外方そっぽを向いてしまったのだから。


─不思議な人じゃ。ああいう男を一度として見たことはない。


長年陰間として働いているからこそ、感じ取ることのできる雰囲気。

その男には一切の“欲望”や“性欲”を見受けられなかったのだ。この花街に来て、この『桜蘭楼』に来て、看板陰間である千里に会って、尚。それらを持ち合わせていない輩などいないにも等しいはずなのに、確かに男はこの場所には不釣り合いな真っ直ぐな目をしていた。

何を恐れたのか千里は、あの男にはあまり近づかないようにしようと心で誓い、座敷から自分を呼ぶ声に従って客の間に溶けいった。



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