【六話◑◐思考と感情】
時が過ぎるのも早く、はや三日がたった。阿月は処置が早かったおかげで一命をとりとめたが、未だに意識が戻っていなかった。医者がいうには「歳だから回復が遅いだけだろう。心配しなくてもすぐに目を覚ます」という楽観的な言葉だったので、屋敷のものは皆、阿月がいつ目覚めてもよいように阿月の世話をしつつ日常を取り戻していた。
問題は影祈だ。影祈はほとんど自室から出なくなっていて、籐矢は心配だった。今も影祈を訪ねて彼女の部屋の前にいるのだが、部屋に踏み出す決心がつかずに廊下でうろうろとしている不審者となっていた。すると、
「籐矢、入っていいわよ」
急に声をかけられた籐矢は驚いたが、「おう」と言うと取り敢えず中に入った。影祈は、幽が裏切った日のように窓辺に椅子を持ってきて座っていた。明かりは部屋の中央にあるテーブルの上の天井から吊るされている、小さなぼんぼりだけだった。
「……泣いてた?」
「泣いてなんかいない。ただ考えていただけ。でも、それについても気持ちは決まったわ。それよりどうしたの?」
その大人びた言葉に、籐矢は眩しそうに目を細めた。影祈は泣いていなかったのだ。幽のいきなりの裏切りに、哀しんでいただろうと思って慰めに来たのが馬鹿らしく思えた。それで影祈に近づき、彼女の頭をぽんぽん、と撫でた。
影祈は自分の問の代わりに、籐矢によしよしされて目を丸くする。
「ちょっと。子供扱いしないで!」
怒っているのか恥ずかしいのか、それとも明かりのせいか。どれかは分からないけど、影祈は顔を真っ赤にさせながらこちらを振り向いた。
籐矢はよしよしするのをやめて、影祈に睨まれながら膝を折って彼女の手を取る。その姿は姫にかしずく騎士のようだった。籐矢はその状態で微笑む。
「俺は影祈ちゃんの味方だから。幽のように裏切らないって約束するよ。───我慢、しなくていいんだよ。泣いていいんだ」
その優しげな言葉に影祈は少しだけ心が揺れて涙腺が緩んだが、結局は泣かなかった。その代わりに言葉を紡ぐ。
「ねえ。それ本当?」
「ああ」
「嘘よ」
「嘘じゃないさ」
「でも、貴方は絶対に帰ってしまう時が来るもの。ずっと私の味方でいるのは無理だわ。それにいくら小さい頃出会っていたって、私たちは出会ったばかりの他人だもの」
籐矢は少し傷ついたように笑った。
「そうかもしんないね。でも、影祈ちゃんの傍にいる今はずっと味方だよ。離れてしまっても絶対にまた、この場所へ戻ってくる」
力強く断言する籐矢に、影祈はくしゃりと顔を歪ませた。
───優しくなんてしないで。今、私はこんなに不安定なのに。
影祈は椅子から立ち上がった。それにつられて、籐矢も立ち上がる。そうなると、背の低い影祈は籐矢を見上げる形になる。
「ねえ、籐矢」
「なあに、影祈ちゃん」
「証明してよ。私の傍にずっといるってこと」
影祈の真摯な瞳に籐矢は一瞬きょとんとした。が、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「影祈ちゃん」
「なあに?」
「ちょっと目を瞑っていてくれる?」
影祈は少しだけ小首をかしげたが、やがてうなずいて、目を瞑った。
籐矢は影祈の横髪をさらりとすいた。影祈の髪はとてもさらさらな絹のようで、とても触り心地が良かった。手元の髪を口元へ寄せて、まずはそこに口づける。甘い香の薫りがほんのりとした。
それから、くいっと右手で影祈の顎を少しだけ上に向かせて、瞼に口づける。影祈は瞼を震わせたが目を閉じたままの状態を保った。
瞼から滑るように頬に口づけると、影祈が微かな吐息を吐いたのが分かった。
一度唇を離すと顎を持ち上げたまま、左手でそっと影祈の腰を抱き寄せて密着する。籐矢の身体で灯りを遮られ、月光にのみ照らされた影祈の顔はとても美しかった。
いつまでも見ていたいと思ったが、別の欲求が生まれ本能のままそれに従う。
「……んぅ…………」
影祈の柔らかな唇に自分の唇を重ねる。影祈が僅かに声をあげたが、気にしないで次の動きに入る。唇と舌を巧みに操って、声を出さずに言葉を伝える。
「ん…………」
───好き。
籐矢が繰り返し言葉を紡ぐ度、影祈は喘ぐように喉を鳴らす。繰り返し繰り返し、好きという言葉だけを重ね続ける。影祈の頭が痺れ始めた頃、籐矢は重ねていた唇を離した。
「…………っ…」
「……これが俺の証明だよ、影祈ちゃん」
影祈は閉じていた瞼を開けると、息も絶え絶えに言った。
「…ばか………」
とろん、と目を閉じて籐矢に身を預ける。鼓動がどくどくと鳴り止まないのに、それを隠すどころか籐矢に聞いて貰うように身体を押し付ける。
会って間もないのに、自分が彼を欲していることに気付いた。だから手離さないように、繋がりを作りたいと思った。
「…約束、だからね……」
影祈の華奢で柔らかな身体を抱き締めると、籐矢の心に様々な欲求が顔を出すが、それを全て抑えて彼女の髪をさらりとすくだけにする。
影祈は顔をあげると嬉しそうに、顔をほころばせた。
† ◑◐ †
籐矢が影祈をお姫様抱っこで寝台に運んだ後、影祈は大人な展開になることを予想してドキドキしていたが、籐矢はもう一度額に口づけをしただけで、部屋を出ていってしまった。それを残念だと思った自分がいることに気づいて、顔を羞恥で染める。
「もう! 私のバカバカ!」
頭を強く振ると、チャリ、と胸元で音がした。影祈はそっと胸元の鍵を見た。風狼の力の源本は文字通り風である。風は情報を司る事ができる。この三日、風狼の風と自分が直接扱える風の術を使い、情報を集めていたのだ。そのせいで籐矢に心配をかけてしまったのだと思うと、少しだけ心が痛んだ。
一度に二つの術を使うから、体力の消耗は激しいが、それにみあう分の情報は手に入った。
まずひとつ。幽の召喚した幻獣の能力は術者が自由に動けるように陣の位置を調節できるものだった。普通なら意味は無く、もっと別の能力があるものと契約するが、幽がやったように乗り物として考えるなら一番良い能力だ。また、大きさが大きさなのでその戦闘能力を意識した相手の裏をかくことができる。つまりは囮の役割をさせることができるのだ。阿月は見事にその策にはまったのだ。
二つ目は、幽の現在の居場所。彼はここからそう遠くない場所にいることが分かった。まるで探しにこいとでも言うように、ある一点から移動していない。
影祈はぱたり、と寝台に横たわった。
───どうして幽様はこんなことをしたんだろう……?
果てしない疑問は誰も答えることはできないもので。しかし、そっと影祈の心を蝕んでいくもの。影祈はもやもやとした気持ちをもて余したまま、その日は眠りについた。
影祈「評価されないって、作者が嘆いてるわ。たまには何か話してあげて。かまってちゃんだから」