【一話◑◐追っかけと魚】
燦々と輝く太陽が淋影祈[りん えいき]の瞳を灼いた。影祈が「あうっ」と声を上げて目をしぱしぱさせると、太陽の残像が瞳の奥に出来上がる。
「───影祈様ぁ、影祈様ぁ」
「げ。や、やばい!もうココまできてるの~?」
影祈は只今、絶賛森の中を爆走中。家の中で誰が大人しくしてるもんですかっ、と憤りながらひょこりと木の根を飛び越える。影祈の服装は赤と白の絹を幾重にも重ねたものだ。長い裳裾を手で引き上げながら走っているため、速さが出ない。しっとりと長い自慢の黒髪も、今は逃亡の邪魔でしかなかった。
「見~つっけた♪ 影祈、ダメだろう?護衛と離れちゃぁ」
抱きっ。
すかっ。
影祈は飛びついて来た人物を感覚だけでよけた。結果、相手は木の根に躓いて転ぶ。髪を丁寧に結い上げて、立派な紺色の絹の衣を着ている彼は秀幽[しゅう ゆう]という。影祈の許婚だ。影祈を見かける度にすぐ抱きついてくる、異国の動物コアラのような人物である。
「幽様。着いてこないで下さいと申したはずですが?」
「何を言うか。私はキミのためにここまで来たのだ。さあ、私の胸へと戻っておいで♡」
下心丸出しのバカは放っておいて、影祈は先へと走り始めた。何故こんな事になったかというと、父親が勝手に今日、影祈の結婚式を始めたからである。前もって影祈に伝えずに、幽と共に計画を練っていたらしい。
影祈としては九年前から行方不明の兄を探したい。しかし結婚してしまえば幽のことだ。影祈を屋敷の外へ出してくれないだろう。過保護な幽を知る影祈はそう確信している。というわけで、結婚式をぶち壊すために影祈は逃亡を試みたのだった。
元々体力は無いが、知識だけは書物を沢山読むため豊富である。影祈はその知識を最大限使って、道中に罠を沢山仕掛けて追っ手をまいていた。そうやって逃げていたのだが……。幽に見つかってしまった。彼は、文官であるわりには、無駄に体力だけはあるため、
「影祈~。何で逃げるんだよ~う」
「……ほうら来た」
影祈はげんなりとした。追っかけてくんな、と念じながらも走る速さは緩めない。
「これからが私達の愛の人生。そんな良き日に逃げ出すなんて……。はっ、これはもしかして乙女の不安と言うヤツか!? 安心しなさい、そんなキミだからこそ愛おしい……」
「全然違うんで黙ってください」
「そんなキミも愛しいよ……」
「寝言は寝てから言ってください」
視界が開けた。影祈は立ち止まる。目の前はきらきらと光を反射するだけの湖で、逃げれる場所がない。幽の方をクルリと向いて、幽との距離を計りながらどこへ逃げようかと考える。
───この人から逃げるのは無理そうね。
そう思って溜息をついた、その時。
ザッバア!!
「え。」
何かとてつもなく大きなモノが水底から上がってくる音がして、思わず振り向く。
「影祈捕まえたあ~♪」
「ひいっ」
例によって例のごとく幽に抱きつかれる。影祈は二重の意味で情けない悲鳴が出た。一つ目は幽に抱きつかれたから。もう一つは、たった今湖から這い上がって来た幽の背丈の軽く十倍はある、黒みがかった赤色の魚がギョロリとこちらを睨んだからだ。
影祈はあまりの事に気を失いそうになるが、ぐっと堪える。そして幽の胸ぐらを掴んで詰め寄る。
「幽様っ! 私に式へと戻ってもらいたいからって召喚獣術であんなモノを呼び出さないで下さい! てか、あんなモノといつのまに契約してたんですかっ!」
召喚獣術。その名の示す通り、ケモノを召喚する術だ。普通のケモノではなく、神力と呼ばれる神の力を持つ特殊なケモノと契約する事で、そのケモノを呼び出す事を可能にする術。神力は様々な形となってケモノに力を与える。例えばこの魚のように巨大化したりなど。こういった神力を持つケモノ達のことを幻獣と呼び、人々は生活を楽にするため取り込んだり、害獣の一種として退治したりする。幽はいくつもの幻獣と契約している者として、影祈の父親から一目置かれており、今回の結婚話もその辺の理由が含まれているらしい。のに。
幽は湖に我が物顔で佇む巨大な魚を見て、
「い、いや! アレは私じゃないよっ!」
おたおたと慌てだした。影祈が鬼のような形相で「嘘おっしゃい! こんな所に幻獣が住み着いてるなんて聞いた事がありません!」と迫った時。
ギャルルルゥッ!!
巨大魚が岸辺へと上がってきた。
「……足と手があるし」
幻獣は巨大化するだけでなく、手足を生やしてしまったようである。影祈は顔をひきつらせて夢中で逃げ出した。幽も影祈と並ぶように走る。
「抱っこしてあげようか?」
「慎んでご遠慮いたしますッ!」
一生懸命走るが、相手はかなりの速さで追いついてきた。森に入る直前、巨大魚はその右手で影祈をむぎゅっと掴んできた。
「あうっ……!」
思いっきり握り締められて小さな悲鳴がこぼれる。骨がギシギシと鳴いている。
「影祈!」
捕まった彼女を助けようと幽が立ち向かう、が。
ぺちっ。「うわっ」。ズシャァァ。「……弱っ!」
巨大魚にデコピンされ、呆気なく敗北した。
「よくもやったな……」
「いや、幽様が弱すぎるだけ……」
影祈は痛みを一瞬忘れ、本気で突っ込んだ。とは言えこの状況、どうしたものだろうか。
ギャルルルゥ。
「え?」
ズシン、ズシンと巨体を揺らしながら巨大魚は湖へと戻って行く。影祈はぎょっとした。
───この魚、私を連れて湖へ戻る気だ!どうにかしないと。魚、サカナ、さかな……。そうだ!
「幽様! 火を、火をこの魚さんに……!」
魚は所詮、魚だ。焼き魚にしてしまえ。影祈は本気で考えた。それを幽に実行してもらおうと苦しい中で声を張り上げた。けれど、幽は思いっきり逃げ腰だ。影祈は内心冷や汗をかく。
───ダメだこの人。
とうとう湖の淵まで来たとき、影祈は死を覚悟した。ああ、情けない。情けなさすぎるわ幽様。私は貴方のせいで死ぬんですからね恨みますからね。と、恨み言を内心で垂らしまくっていた影祈は、シャキンという音を聞いた。
「動くなよ」
耳元で心地よい低めの声で囁かれた。同時に、影祈の身体から巨大魚の手が外れる。影祈は思わず目を瞑った。
───墜ちるっ。
一瞬の浮遊感。そこから落下の感覚。それらは感じたけれど、落下の衝撃は無かった。代わりにぽすん、と誰かが受け止めてくれた気配があった。
影祈は恐る恐る閉じていたまぶたを開いてみた。そこには、前髪が眉にかかり、癖毛なのだろうか。肩までの赤みを帯びた茶髪が一部波打っている。腰には紅玉が鍔にはめ込まれただけの質素な剣。着ているのは絹とも麻とも言えない不思議な肌触りの衣だ。凛々しい男だった。幽と比べたら。
「あのぅ……。おろしてくれませんか?」
影祈が上目遣いでお願いすると、彼は「ちょっと待ってね」と言って森の入り口、幽のいるところまで連れて行ってくれた。そこまで来てようやく彼は影祈をおろしてくれる。そして再び巨大魚へと立ち向かって行った。
「影祈~、大丈夫かい~?」
抱きっ。影祈は巨大魚に立ち向かって行った彼を見ていたためうっかりしていた。幽に抱きつかれて赤面する。
「可愛いね~、ぼーっとして。顔も赤いし、もしかして恥ずかしいのかな~?」
「そんな訳ありませんっ。離してくださいっ」
幽は不満げながらも渋々離れた。よろしい。
「幽様。私はこれから巨大魚もどきのもとへ行きます。幽様は使用人の誰かに知らせてくださいな。お願いしますよ?」
「そうだね~。下手な剣よりキミの術の方が確実だよね、うん」
幽は名残惜しそうに影祈を見ると、背を向けて屋敷の方へと戻って行った。途中で罠にかかっている使用人達を助ければすぐに戻って来るだろう。
「さあ、暴れるわよ」
影祈は唇の端を釣り上げて、獲物を見つけた猫のように微笑んだ。
影祈「ランキングに票を入れてくれると、作者が泣いて喜ぶらしいわ。全く、いい歳した大人なのに。 ……あら?あたし達の世界じゃ、16歳で成人だけどちがうの?」