人形師「天竺葵」
尖り始めた季節の空気は、あらゆるものから熱を奪おうとする。行き交う人々の体温、アスファルトに蓄積された温度に手を伸ばしてくる。そこに夕暮れが味方すると、街は寒さに支配される。
風が、少女の肩に乗ったコートを揺らした。
彼女はされるがまま、抵抗しない。寒くないのか、襟元もあわせていなかった。肌は白く、赤みがない。冷え切ってしまっている。あるいは、もともと色が薄いのだろう。
彼女は家路を急いでいた。手にしたビニール袋には、ホームセンターで買ったハーブ用の土が入っている。重すぎることはないが、軽々とはいかず、何度か左右を入れ替えていた。
自宅のマンションまで数分というところで、俯いて歩く少年を見つけた。頭を垂れた姿が、どうしてか気に掛かった。
「大丈夫ですか」
急ぎ足を止めた。近づいてみてわかったことがある。少年の顔は汗ばんでおり、涼しいを通り過ぎた気温では、不自然な様子だった。
「なんだよ。向こう行け」
少年は驚いた表情をして、すぐに顔を背けた。少女と違い、彼の頬は朱が差していた。冷たい風に当てられたようだ。
「怪我をしていますか」
足を引きずっていた。そして、ズボンには泥汚れがついていた。上着のシャツも同じだ。
「寒くはありませんか」
肩のところが破けていた。そこに空気が入り込み、身体を冷やしている。顔が赤いのは、熱を出しているのかもしれない。
「うるさいよ!」
金切り声に、涙が混じった。息が荒い。
「あっち行け」
少年の剣幕に少しだけ立ちすくんだものの、少女は彼の背を追った。
体調の悪そうな人間を放っておけなかった。名も知らない少年だったが、見過ごせない。家に帰るまでついていったほうがよいか、迷う。
「喧嘩でもしたのですか」
ついていくにしても、黙ったままでいるのはおかしい。話をすれば、体調の善し悪しが判断できる。
「勝ちましたか」
「どうしたら勝ったように見えるんだよ!」
少年は泣きべそをかいた。
「違うのですか。負けてはいないようですけれど」
彼はそっぽを向いた。心の内を明らかにはしない。一方的にやられたとは、誰にも言いたくはなかった。
「負けたんだよ! いちいち質問するなよ。うざいぞ」
怒鳴るのは虚勢だ。彼は惨めさで心がふさがれそうになっていた。
「質問が多いと、よく言われます。ですけど、おかしくはありませんか」
彼女に自粛する気はなかった。
「何がだよ」
真摯な眼差しが、彼に抵抗を諦めさせた。黙っていても質問攻めになると、彼女の科白からも察した。
「負けていたら、あなたは、生きていないでしょう?」
街路樹の葉がざわめいた。小枝にぶら下がっていた幾枚かの葉が、木枯らしにもまれて落ちた。
公園のベンチで、少年と少女は少し距離を開けて座った。
少女は、シャツを裏返し、糸を通した。手際よく針を動かして、できるだけ目立たないように繕う。
「ちょうどよい色の糸がなくてすみません。お帰りになったら、やり直してください」
少年は無言だった。量販店で買った服だから、捨ててもよかった。それを、彼女は無理矢理脱がせ、裁縫道具を取りだしたのである。
「針と糸なんて、どうして持っているんだ」
綺麗に繕われた上着を羽織り、着心地を確かめた。裁縫のことなど、何一つ知らなくても、彼女の腕が確かなことがそれでわかった。
「おかしいですか。あなたは持っていないのですか」
「持っているわけない」
少年は首を振った。疲れた顔をしていた。
体調が思わしくなかった。身体の節々も痛い。喧嘩という名のいじめで、痣だらけになっているからだ。しかし、喧嘩の現場からどうやって逃げてきたのか、彼にはわからなかった。気づいたら道を歩いていたのだ。
「それでは、こちらは、どうですか」
少女のコートがはだけられた。
少年は思わず唾を飲み込んだ。
彼女はサッシュベルトに吊した小瓶の蓋を開けた。
強い香りが、少年の目を閉じさせる。
「ゼラニウムの精油ですけれど」
『やめろ』
彼女の言葉を遮って、少年の口からしわがれた声が出た。
「その子から出て行っていただければ、すぐにしまいますが」
逃げようとした少年に、彼女は容赦なく精油を振りかけた。雫が顔と手にかかり、火傷したように赤くなった。
『この身体はワシのものだぞ。誰にも渡さん!』
少年は苦悶の表情で、少女に体当たりした。彼女は手を突き出して、抵抗を試みる。
細い手が触れた瞬間、意外にも少年のほうが地面を転がっていた。彼が目を閉じた時、彼女は精油を手に塗っていたのである。
『痛い、痛い』
「出て行ってくださらないと、もっと痛くなりますよ。物の怪さん」
少年の声が豹変したのは、彼の身体に巣くっていた妖が表層に出てきたためだった。魔除けとして使われる赤いゼラニウム、またはペラルゴニウムと呼ばれる花から作られた精油は、物の怪にとって熱せられた油に等しいのである。
妖の類が人の身体に入り込むと、宿主となった人間は往々にして発熱する。重い風邪のような症状だ。そして、適切な処置を行わなければ、身体を乗っ取られてしまう。
彼女は、少年の容体から何者かに憑かれた人間と考えた。精油の蓋を開けたのは、自分の予想が正しいか判断する試験だった。
『わかった。出て行くから、起こしてくれ』
ひっくり返って悶える少年は、涙と鼻水を垂れ流していた。
「わかりました」
哀れさを誘う顔に同情し、ハンカチでオイルを拭ってから、手を差し伸べた。
『馬鹿な女』
両手首が握られた。
「やめてください」
彼女の力では振りほどけない。左右に揺らすのが精一杯だった。
少年の顔が近づいてきた。口が大きく開いた。唇と歯の奥に何かが垣間見えた。
「それが、あなたの本性ですか」
濁った黄色い白目の中心に、真紅の瞳が広がっていた。拳ほどもあるグロテスクな目玉だ。
口を割って、妖が外に出てきた。夕日に照らされ、瞳孔がすぼまる。
目玉に見据えられた途端、少女は身体を強張らせた。鋭い刃が生えた鎖で巻き取られように、金縛りに見舞われていた。
『お前の身体も奪ってやる』
操られた少年の指が、少女の口を押し広げた。濁った目玉が唇に近づく。後ろには、肉の繊維が続いていた。
ぷつりと鳴った。
布が裂ける音が続き、シャツを繕った糸が弾け飛んでいた。水中の海蛇のように、糸は醜い目玉と視神経に絡みついた。
『なんだこれは』
一呼吸置いて、糸は緊張を取り戻した。
『ぎゃあ』
寸暇のうちに妖の瞳はすぼまった糸に寸断され、汚れた血の雨を呼んだ。
「困ります」
少女は飛沫をハンカチで拭った。彼女の糸は物の怪に反応する素材でできていた。この状況を想定して、あらかじめ織り込んでいたのである。
「この身体は大事なものですので、お渡しできません」
血の染みたハンカチを、別の瓶に入れていたハーブ水で洗い、残りの汚れを拭き取った。物の怪の血を浴びて、そのままにしていては悪い影響が出る。
不意に目眩がした。立っていられず、膝をついた。
「これは」
妖の血を少し口に含んでしまっていたようだ。
『おのれ、女と見て油断したわ』
どこからか声がした。自分の中からだった。
『弱らせてから乗っ取るべきであったか』
少年にはそうやって憑依した。同級生に殴られて身体が弱り、いじめで心が傷つけば、妖にとってはまたとない獲物だ。
今、血を含んだ少女は、彼と同じように弱っていた。
だるい。
腕を重いと感じたのは、初めてだった。
熱っぽい。
身体に熱さを知ったのも初体験だ。
少女は、ベルトに手を伸ばした。指先が瓶に触れる。
これではない。もうひとつ右の瓶だ。ほんの少しの距離が遠かった。
妖の残骸が近寄ってきた。
切り刻まれた瞳が、肉塊の中で、いくつかの暗い深紅を浮かべていた。視神経に引きずられた少年の身体が地面をこすり、汚れた血の海に浸った。
「負けては、いないですよね」
少女は、声を絞り出した。
少年の身体がぴくりと動いた。
「私も、負けはしません」
爪が立った。指が地面を掻いた。
『邪魔するな』
妖の動きが束の間、重くなった。
少女の指が青紫の瓶に触れた。親指で蓋を強く弾いて、封を外した。
香気が漂い出す。濃く煮出したヒソップのハーブティーをさらに濃縮したエキスが封入されていた。
よろめく。倒れる。身体を捻って、口元に瓶を近づけた。清浄なヒソップのエキスが舌に乗る。
たちどころに、身体が軽くなった。清々しい気に満ち溢れた。
『よくも……』
頭の中の声が小さくなり、消え去った。
「私たちの勝ちです」
ふるふると震える妖に、彼女は残りの魔除けの精油を振る舞った。
「お加減はいかがですか」
少年の口にヒソップを含ませると、しばらくして意識を取り戻した。
「うわ、ごめん」
膝枕をしてもらっていることに気づき、彼は顔を赤くしながら起き上がった。
「何がですか」
「よく覚えていないけど、助けられた気がする」
「私も助けられました」
少女は瓶をしまってから、手の違和感に気づいた。
「あ、怪我しているじゃないか」
親指が欠けていた。
ヒソップの瓶を開けるとき、勢いが良すぎたのだろう。第一関節から先がなくなっていた。
「これは、前からです」
嘘をついた。血は流れていない。だから、少年はすぐに納得した。
「心配してくれたのですか」
「痛かったら、嫌じゃないか」
身体の痣を思い出した。怪我をすると、痛い。させられるのは、もっと痛い。
「そうですね。嫌だと思います」
彼女は痛覚というものを知らなかった。指は修理すれば元通りになる。腕が壊れたら、代わりの物をつければよい。人形は、痛みも、寒さも感じない。
「思います?」
怪訝な顔をする少年から、彼女は手を隠した。
「おかしなやつだな」
少女は目を伏せた。
人間から見たら、血が流れない自分は異様な存在だ。だから知られてはならない。
苦痛に泣くこともせず、寒さで身体を火照らすこともない。物の怪と一緒にされても、おかしくなかった。
「まあ、いいや。ほら」
少年は手を差し出した。照れくさそうにしていた。
少女は少しためらってから、欠けていないほうの腕を伸ばした。
「あたたかい」
「お前のは冷たいな」
「……でしたら、あたためてくれますか」
離れようとした手が止まった。
少年は黙って握り返した。
人間の温もりが伝わってくるのを感じて、彼女はしばし人形である自分を忘れた。