第7話 魔物の大氾濫を鎮める無限の冷却魔法
その日のティータイムは、不吉な地鳴りとともに中断されました。
ズズズズズ……。
カップの中の紅茶が小刻みに震え、波紋を広げます。
「……地震でしょうか?」
「いや、違う」
対面に座っていたルーカス様が、カップを置いて立ち上がりました。
その表情は険しく、アイスブルーの瞳が窓の外の一点を凝視しています。
「この振動……魔物の足音だ。それも、尋常な数ではない」
私たちは急いで庭へ出ました。
空は晴れているのに、森の奥から土煙が舞い上がり、太陽を遮るように広がっています。
そして、風に乗って聞こえてくるのは、無数の獣の咆哮と、何かが砕け散る音。
目を凝らすと、森の木々が次々となぎ倒されていくのが見えました。
その下を埋め尽くす、黒い影の奔流。
「スタンピード(大氾濫)……!」
ルーカス様が呻くように言いました。
「なぜだ? 周期にはまだ早いはずだ。それに、この規模は……深層の『封印壁』が破られない限りあり得ない」
封印壁。ダンジョンの最奥に眠る高ランク魔物たちを閉じ込めている結界です。
それが自然に破れることはありません。
あるとすれば、強力な外部衝撃――例えば、パニックになった誰かが、出口と間違えて壁を爆破したとか。
(……まさか、ね)
数日前に逃げ帰った、赤髪の元婚約者の顔が脳裏をよぎりました。
方向音痴で、焦ると見境がなくなる彼なら、やりかねません。
いえ、間違いなくやったのでしょう。
あの黒い波の先頭で、必死に逃げ惑う小さな人影が見えますから。
「ミラベル、逃げるぞ!」
ルーカス様が私の肩を掴みました。
「俺が時間を稼ぐ。君はその隙に転移スクロールで王都へ……」
「お断りします」
私は即答し、彼の手を優しく外しました。
「え?」
「逃げませんよ。だって、ここは私の家ですもの」
私は振り返り、愛しい我が家を見上げました。
ピカピカに磨いた窓、手入れの行き届いた花壇、そして何より、私がやっと手に入れた「静寂」。
あれら魔物の群れが通れば、この家はぺしゃんこに踏み潰され、汚泥と臓物にまみれることでしょう。
想像しただけで、吐き気がします。
許せません。
私の聖域を汚すなんて、害虫駆除の対象です。
「それに、ルーカス様。貴方がいれば、守りきれるでしょう?」
「……無茶を言う」
彼は苦笑しましたが、その瞳には熱い光が宿りました。
「だが、君らしいな。……分かった。俺の命に代えても、君の庭には指一本触れさせない」
彼は一歩前へ出ると、両手を広げました。
周囲の空気が一瞬で凍りつき、ダイヤモンドダストがきらめきます。
「氷結界・展開」
彼を中心に、巨大な魔法陣が描かれました。
迫り来る黒い津波――数千匹のオークやオーガ、そしてワイバーンの群れに対し、彼はたった一人で立ちはだかります。
「消えろ――『氷河の咆哮』!!」
ドォォォォォッ!!
彼の手から放たれたのは、吹雪のブレスでした。
先頭を走っていた魔物の群れが、悲鳴を上げる間もなく氷像へと変わります。
続く群れも、氷の壁に阻まれて立ち往生し、そこへさらに追撃の氷槍が降り注ぎます。
圧倒的です。
これぞ、王国最強。
一人で軍隊に匹敵すると言われる所以でしょう。
ですが。
「……っ、ぐ……!」
数分後。ルーカス様の膝がガクンと折れかけました。
彼の呼吸が荒くなり、白い肌が異常なほど赤く染まっています。
体から湯気が立ち上っているのが見えました。
(やっぱり、オーバーヒートですね)
強力な魔法を行使すれば、術者の体内には莫大な「魔力熱」が発生します。
通常なら冷却期間を置くのですが、これだけの数を相手に連射し続ければ、排熱が追いつきません。
このままでは、彼の脳が焼き切れ、再び廃人になってしまいます。
「はぁ、はぁ……まだだ……まだ、撃てる……!」
彼はふらつきながらも、構えを解こうとしません。
その背中は、痛々しいほどに高潔でした。
(本当に、不器用な人)
私はため息をつき、彼に駆け寄りました。
そして、躊躇なくその背中に抱きつきました。
「なっ、ミラベル!?」
「動かないでください。ラジエーターが壊れますよ」
私は彼に密着したまま、意識を集中させます。
熱い。
彼の体は、まるで沸騰したヤカンのようです。
これでは思考も鈍るでしょう。
やることは一つ。
真夏の部屋をキンキンに冷やす、あの感覚です。
「生活魔法――『急速冷却』、および『魔力循環洗浄』!」
私の手から、冷涼な風が彼の体内へと流れ込みます。
単に冷やすだけではありません。
熱暴走の原因となっている「滞った魔力」を洗い流し、スムーズに循環させるのです。
いわば、詰まりかけたパイプを掃除し、冷却水を流し込むようなもの。
「……っ!?」
ルーカス様が目を見開きました。
彼の体から立ち上っていた異常な熱気が、すぅっと引いていきます。
赤らんでいた肌が白さを取り戻し、乱れていた呼吸が整う。
「……体が、軽い。熱くない」
「私の魔力が続く限り、貴方の体温は適正値に保たれます。ですから――」
私は彼の耳元で囁きました。
「遠慮なく、ぶっ放してくださいませ」
「……ふっ、了解だ。最高のパートナーだな、君は」
ルーカス様が獰猛に笑いました。
その笑顔は、今まで見たどの表情よりも輝いて見えました。
「全門開放。――『絶対零度』」
キィィィィィィン!!
世界から音が消えました。
彼から放たれたのは、もはや魔法というより「現象」でした。
白い波動が扇状に広がり、森を、大地を、そして空を埋め尽くす魔物の群れを飲み込んでいきます。
逃げようとしたワイバーンが空中で凍りつき、落下して砕け散る。
オークの群れが、恐怖の表情を浮かべたまま芸術的な彫像へと変わる。
それは一方的な蹂躙であり、同時に美しい浄化の光景でした。
私の役割は、彼が魔法を放つたびに発生する熱を、瞬時に奪い去ること。
撃つ。冷やす。撃つ。冷やす。
私たちの呼吸は完璧にシンクロしていました。
まるで、一つの巨大な兵器になったかのように。
◇
どれくらいの時間が経ったでしょうか。
気つけば、地鳴りは止んでいました。
目の前に広がっていたのは、白銀の世界。
見渡す限りの森が凍りつき、数千体の魔物が、きらきらと輝く氷のオブジェとなって静止しています。
動くものは何一つありません。
「……終わった、か」
ルーカス様がゆっくりと腕を下ろしました。
私は彼の背中から離れ、顔を覗き込みます。
「体調は?」
「信じられないくらい快調だ。魔力切れの倦怠感すらない」
彼は自分の手を見つめ、それから私を見て、感極まったように抱きしめてきました。
「ありがとう、ミラベル。君がいなければ、俺は燃え尽きていた」
「……お庭が無事でよかったです」
私は照れ隠しにそう言いながら、彼に抱きしめられるままにしておきました。
彼の体は、冷たくて、でも芯はとても温かくて。
ああ、これはもう「他人」の距離感ではありませんね。
ふと、遠くから蹄の音が聞こえてきました。
振り返ると、王都の方角から騎士団の旗が見えます。
遅れてやってきた増援部隊でしょう。
「……やれやれ、説明が面倒そうだ」
ルーカス様が不機嫌そうに眉をひそめます。
目の前の惨状――数千の魔物が瞬殺されている光景を見れば、誰がやったのか一目瞭然ですから。
「そうですね。でも、その前に一つだけ」
私は指差しました。
氷像の群れの中に、いくつか「人間っぽい氷像」が混じっているのを。
あの赤髪と、派手なローブ。
セリウス様たちです。
魔物の群れと一緒に逃げてきて、巻き込まれて凍ってしまったようですね。
「……生きてますか、あれ」
「死んではいない。仮死状態だ。解凍すれば息を吹き返すだろう」
「そうですか。では、彼らの『解凍』は騎士団にお任せしましょう」
私たちは顔を見合わせ、共犯者の笑みを浮かべました。
さあ、事後処理の時間です。
私たちの平和な生活を守るための、最後の一仕上げといきましょう。




