第6話 氷の貴公子は恩人への不敬を決して許さない
「消え失せろ! この役立たず女がぁぁッ!!」
セリウス様の叫び声とともに、結界の外で紅蓮の炎が渦巻きました。
上級火魔法『プロミネンス・ランス』。
岩をも溶かす熱線が、私のささやかなマイホームに向けられます。
(ああ、なんてこと!)
私はモニター越しにその光景を見て、顔をしかめました。
結界が破られる心配はしていませんが、問題はそこではありません。
炎の熱で、手入れしたばかりの芝生が焦げてしまうではありませんか!
植えたばかりのラベンダーが!
私の癒やし空間が!
「……不愉快だ」
隣で、低く地を這うような声がしました。
振り返ると、ルーカス様が玄関のドアノブに手をかけています。
彼はシルクのパジャマ姿。
足元はスリッパ。
けれど、その背中から立ち上る青白いオーラは、魔王のそれでした。
「ミラベル、耳を塞いでいろ。……汚い音が聞こえるかもしれん」
「え? はい」
私が言われるままに両手で耳を覆った、その瞬間。
ルーカス様が勢いよくドアを開け放ちました。
ヒュオオオオオッ!!
猛吹雪のような冷気が、室内から屋外へと噴き出します。
それは、セリウス様が放った炎の槍を、一瞬で凍りつかせました。
燃え盛る炎が、ガラス細工のように空中で静止し、パリーンと砕け散ります。
『なっ……!? 俺の魔法が!?』
外から、セリウス様の素っ頓狂な声が聞こえました。
私は少しだけ耳の隙間を開けて、様子を伺います。
玄関ポーチに出て行ったルーカス様の背中越しに、呆気にとられる元婚約者たちの姿が見えました。
『だ、誰だ貴様! ミラベルの新しい男か!?』
セリウス様は、まだ状況が理解できていないようです。
逆光と、舞い上がる氷の粒で視界が悪いのでしょう。
彼は杖を突きつけ、唾を飛ばしながら喚き散らしました。
『貧相な男め! パジャマ姿で出てくるとは舐めやがって! 俺は名門バーンサイド家の次期当主だぞ! その女は俺が捨てたゴミだ、さっさと引き渡せ!』
ああ……言ってしまいましたね。
私は天を仰ぎました。
セリウス様、貴方は今、この国の「地雷」を全力で踏み抜きましたよ。
ルーカス様が一歩、前に進みます。
スリッパが石畳を踏む、軽い音。
けれど、その一歩に合わせて、周囲の気温が急激に下がりました。
木々の葉が白く凍りつき、地面に霜が走ります。
「……誰が、ゴミだと?」
ルーカス様が顔を上げました。
朝日が彼の顔を照らし出します。
彫刻のように整った美貌。
しかし、そのアイスブルーの瞳は、絶対零度の冷徹さを宿していました。
「ひっ……!?」
セリウス様の喉から、悲鳴のような呼吸音が漏れました。
彼の後ろにいた女性魔導師や、他のメンバーたちも、一斉に目を見開いて硬直します。
『あ、あ、アイゼル……シュタイン……公爵……?』
『嘘でしょ……氷の貴公子……!?』
『な、なんでこんな所に……!』
彼らの顔から血の気が引いていくのが、遠目にも分かりました。
無理もありません。
ルーカス・フォン・アイゼルシュタイン。
この国で魔法を学ぶ者なら、その顔を知らぬ者はいません。
若くして最強の座に上り詰めた、生ける伝説。
その伝説が今、パジャマ姿で、般若のような形相で睨んでいるのです。
「き、貴公子殿!? な、なぜここに!? 我々はただ、その不法占拠者を……」
セリウス様が震える声で弁明しようとしました。
しかし、ルーカス様は問答無用で遮ります。
「黙れ」
ただ一言。
それだけで、空間がビリビリと振動しました。
魔力を乗せた「言霊」です。
セリウス様たちは見えない巨大な手に押さえつけられたように、その場に崩れ落ちました。
「お前たちの口から吐き出される言葉は、あまりに汚らわしい。ここの空気が腐る」
ルーカス様が見下ろします。
その視線の冷たさは、物理的な温度以上に彼らを凍えさせました。
「よく聞け。この屋敷の主、ミラベル嬢は、私の恩人であり、最も敬愛すべき女性だ」
えっ。
私はドアの隙間から顔を覗かせ、目を瞬かせました。
敬愛? いつの間にそんな設定に?
「その彼女を愚弄し、安息を脅かす者は、この私が許さない。……バーンサイド家の名は覚えた。覚悟しておけ」
ルーカス様が右手を軽く振りました。
すると、セリウス様たちの足元から巨大な氷柱が突き出し、彼らの鼻先数センチで停止しました。
「ひいいいいいッ!!」
セリウス様が裏返った悲鳴を上げ、腰を抜かして尻餅をつきました。
泥だらけのズボンの股間あたりが、じわりと濃い色に変わっていきます。
……ああ、漏らしましたね。
汚い。本当に汚い。
「失せろ。二度と彼女の視界に入るな」
最後の宣告。
それは慈悲など欠片もない、死刑宣告に近い響きでした。
『う、うわあああああん!』
『助けてくれぇぇぇ!』
『ごめんなさいごめんなさい!』
紅蓮の牙のメンバーたちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出しました。
杖も荷物も放り出し、泥水を跳ね上げながら、森の奥へと転がるように消えていきます。
後に残ったのは、彼らが落とした薄汚れた装備品と、異臭だけ。
「……ふん。口ほどにもない」
ルーカス様は冷たく鼻を鳴らすと、くるりと踵を返しました。
そして私の方を向いた瞬間。
その表情が、春の陽だまりのように柔らかく崩れました。
「すまない、ミラベル。騒がしくしてしまったね」
「い、いえ……ありがとうございます」
私はあまりのギャップに戸惑いながらも、タオルを差し出しました。
「お疲れ様でした。……あの、大丈夫ですか? 魔法を使って」
「問題ない。あんなもの、魔法のうちに入らんよ。ただの威嚇だ」
彼は涼しい顔で言いました。
パジャマの裾ひとつ乱れていません。
これが格の違いというものでしょうか。
「それにしても」
私は玄関の外を見やり、ため息をつきました。
「結局、玄関アプローチが汚れましたわ。あの方たちの脂汗と……その、老廃物で」
「……俺が凍らせて削り取ろうか?」
「いえ、私がやります。ルーカス様は冷めないうちに朝食の続きを」
私は笑顔で辞退し、袖をまくりました。
さて、汚物は消毒です。
徹底的に洗い流して、塩でも撒いておきましょう。
こうして、元婚約者の襲撃(?)は、ものの数分で鎮圧されました。
彼らが二度と戻ってこないことを確信しつつ、私たちは中断していた朝食――少し冷めてしまいましたが、それでも最高に美味しいシチューに戻ったのです。
平和です。
本当に、心穏やかな朝です。
――この時の私たちは、まだ楽観視していました。
逃げ帰ったセリウス様たちが、自分たちの失態を隠すために、ダンジョンの奥で「余計なこと」をしてしまうなんて。
そしてそれが、国をも巻き込む大災害の引き金になるなんて、思いもしなかったのです。




