第2話 泥だらけの侵入者を洗ったら氷の貴公子だった件
ドサリ、という重い音。
それに続いて、地面を引きずるようなズズ……という音が聞こえました。
「……何ごとかしら」
私は淹れたばかりの紅茶をテーブルに置き、窓の外へと視線を向けます。
先ほど私が展開した「防衛結界」は、敵意ある魔物や害獣を弾く設定になっています。
ですから、危険なものは入ってこられないはずなのですが。
私は念のため、護身用のフライパン(魔導コーティング済みで焦げ付かない優れものです)を片手に、コテージの扉を開けました。
外は薄暗い森。
結界が発する微かな光の境界線上に、それはありました。
「……なんですか、あれ」
思わず顔をしかめます。
そこには、人間くらいの大きさがある「黒い塊」が転がっていました。
近づくにつれて、鼻が曲がりそうな悪臭が漂ってきます。
ドブ川の底泥と、真夏に腐らせた生卵を煮詰めたような、強烈な臭い。
私は反射的に袖で鼻を覆いました。
塊はずぶ濡れで、コールタールのようなドロドロの粘液に覆われています。
よく見れば、それは人の形のようにも見えますが……。
「う……」
塊が微かに呻き声を上げました。
ピクリと動いた手らしき部分から、黒い滴がポタリと地面に落ちます。
「ひっ!」
私は悲鳴を上げそうになり、慌てて口を押さえました。
怖いからではありません。
地面が!
私がさっき綺麗にしたばかりの、玄関先のアプローチが!
あの不潔な汁で汚れてしまう!!
(緊急事態です!)
あれが何者であれ、このまま放置すれば、粘液に含まれる瘴気が土壌を汚染し、私の愛するハーブ園や水源にまで被害が及ぶかもしれません。
見過ごせません。
衛生管理責任者(私)の名にかけて!
「とりあえず、洗います!」
私はフライパンを放り出し、両手を突き出しました。
相手が魔物か人間か、そんな確認をしている暇はありません。
まずは滅菌、洗浄、消臭です。
イメージするのは、前世で見た業務用の高圧洗浄機。
いいえ、もっと強力に。
繊維の奥に入り込んだシミすら分子レベルで分解する、最強の全自動洗濯乾燥機です!
「生活魔法――『全自動洗濯』!!」
私の手から、水と風、そして光が混じり合った魔法陣が展開されました。
シュゴオオオッ!
猛烈な水流の渦が、黒い塊を包み込みます。
本来なら、人は洗濯機に入れてはいけません。
ですが、私の魔法は対象を傷つけず、汚れだけを選別して剥ぎ取る「特別製」です。
黒い粘液が弾け飛び、瘴気の霧が光に焼かれて消えていきます。
こびりついた泥、血痕、正体不明の汚物。
それらがみるみるうちに浄化されていく様は、見ていて実に爽快です。
ああ、頑固な汚れが落ちていくこの瞬間こそ、生きている喜びを感じますね!
「仕上げです! 『瞬間乾燥』!」
温かな風が吹き抜け、余分な水分を奪い去ります。
水煙が晴れた後。
そこには、先ほどまでの汚物が嘘のように、ピカピカに磨き上げられた「人間」が横たわっていました。
「……え?」
私は目をぱちくりさせます。
てっきり、薄汚れたオークか熊だと思っていたのですが。
そこに倒れていたのは、濡れたような黒髪を持つ、驚くほど美しい男性でした。
年齢は私より少し上でしょうか。
身につけているのは、ボロボロにはなっていますが、質の良い騎士服です。
胸元には、青と白の紋章――あれは、公爵家の?
「ま、まさか……」
私はその顔に見覚えがありました。
社交界の遠くから眺めたことしかない、雲の上の存在。
王国最強の氷使いにして、アイゼルシュタイン公爵家の嫡男、ルーカス様ではありませんか。
「ど、どうして『氷の貴公子』が、産業廃棄物みたいになって捨てられているんですの!?」
訳が分かりません。
彼はうつ伏せで倒れたまま、動きません。
死んでいるのでしょうか?
恐る恐る近づき、首筋に指を当てます。
脈は……あります。
呼吸も浅いですが、しっかりしています。
ただ、顔色は紙のように白く、魔力切れ特有の冷や汗をかいていました。
「……ここで見捨てるわけにはいきませんよね」
一瞬、結界の外にポイっと戻そうかという誘惑に駆られましたが、さすがに良心が咎めました。
それに、こんな美しい「洗い上がり」のものを、また土の上に転がしておくのは美的センスに反します。
「運びましょう。よいしょっと……」
彼の手を引こうとしましたが、びくともしません。
見た目以上に筋肉質で、ずっしりと重いのです。
私のような非力な令嬢には、小指一本動かすのも無理そうです。
(困りましたね。引きずって運ぶと、また服が汚れてしまいますし)
私は腕組みをして考え込み、ポンと手を打ちました。
そうだ、あれを使いましょう。
模様替えの時に使う、便利な魔法を。
「生活魔法――『家具配置換え(レイアウト・チェンジ)』」
ふわっ、とルーカス様の体が宙に浮きました。
本来はタンスやソファを移動させるための魔法ですが、人間も家具も似たようなものです。
私は人差し指を指揮棒のように振り、空中に浮いた彼を誘導します。
「はい、こっちですよー。頭ぶつけないように気をつけてー」
コテージの扉をくぐり、彼を慎重に運び入れます。
リフォームしたばかりの客室へ。
窓から木漏れ日が差し込む、清潔な部屋です。
私は彼を、洗い立てのシーツを敷いたベッドの上に、そっと下ろしました。
沈み込むマットレス。
ふかふかの枕。
ルーカス様の眉間に刻まれていた深い皺が、少しだけ緩んだ気がしました。
「……ん……」
彼はうわごとのように、何かを呟きました。
「……ここは……天国か……?」
「いいえ、アビスの森のゴミ捨て場です」
聞こえていないでしょうが、私は正確に訂正しておきます。
それにしても。
改めて見ると、本当に整ったお顔立ちです。
長い睫毛に、通った鼻筋。
眠っている姿は、おとぎ話の王子様のよう。
先ほどまでヘドロまみれだったとは信じられません。
「……んっ……」
彼が寝返りを打ちました。
その拍子に、破れた服の隙間から、包帯も巻かれていない痛々しい傷跡が見えました。
魔物に切り裂かれたのでしょうか。
傷口は塞がっているようですが、まだ赤く腫れています。
(……汚いですね)
いえ、傷そのものではなく。
傷口周辺に残っている、微細な「毒素」の気配が気になりました。
普通の治癒魔法では治せない、細胞にこびりついた汚れのようなもの。
職業病でしょうか。
目についた汚れは、落とさずにはいられません。
「少し、失礼しますね」
私は彼のおでこにそっと手を触れました。
使うのは、頑固な油汚れを浮き上がらせるイメージ。
「『部分染み抜き(スポット・クリーン)』」
淡い光が彼を包みます。
すると、彼の体から黒い煙のようなものがスゥッと立ち上り、霧散していきました。
よし、これでスッキリしました!
彼の呼吸が、先ほどよりも深く、穏やかになったのを確認します。
「さて、と」
私はベッドサイドのテーブルに、水差しとグラスを置きました。
やるべきことはやりました。
あとは彼が目を覚まして、さっさと帰ってくれるのを待つだけです。
「私の平穏な生活、邪魔しないでくださいね」
寝息を立て始めた公爵様を一瞥し、私はリビングへと戻りました。
冷めてしまった紅茶を淹れ直さなくてはなりませんから。




