第10話 新しい契約と最高のハッピーエンド
「……つまり、こういうことですか?」
私は王城の応接室で、目の前に差し出された羊皮紙を見つめました。
そこには、国王陛下の玉璽が押された正式な勅命が記されています。
『アビス・ダンジョン周辺域を、アイゼルシュタイン公爵家の直轄領と定める。同地の管理および警備責任者として、ルーカス・フォン・アイゼルシュタイン、ならびにミラベル・クルーを任命する』
「左様。おめでとう、ミラベル男爵」
宰相様が満面の笑みで言いました。
男爵。
いつの間にか、私個人に爵位まで授与されていました。
「ダンジョンは依然として危険な場所だ。だが、スタンピードを二人だけで鎮圧した其の方らなら、抑止力として十分だろう」
「はあ……」
「現地での居住を許可する。形式上は『監視任務』だが、実態は好きにしてよい。国としては、あの場所が安全でありさえすれば文句はないのでな」
私は隣に座るルーカス様を見ました。
彼は澄ました顔で紅茶を飲んでいますが、その足元が嬉しさのあまり小刻みにリズムを刻んでいるのを、私は見逃しませんでした。
(なるほど、裏で手を回しましたね?)
私が「王都の堅苦しい生活は嫌だ」「あの小屋に帰りたい」とこぼしていたのを、彼は聞いていたのです。
だからこそ、「国の重要な防衛拠点」という名目で、あの場所を私たちの「公的な住処」にしてしまったのでしょう。
「……分かりました。お受けします」
私が頷くと、ルーカス様がカップを置いて立ち上がりました。
「交渉成立だ。行くぞ、ミラベル。引越しの準備がある」
「あ、ちょっと待ってください! まだお菓子が……」
強引に手を引かれ、私たちは王城を後にしました。
廊下ですれ違う貴族たちが、私たちを見て深々と頭を下げていきます。
かつて「役立たず」と蔑まれていた私を見る目は、今や「国の救世主」を見る畏敬の眼差しに変わっていました。
◇
馬車に揺られること数時間。
見慣れた森の景色が近づいてきました。
「……懐かしいですね」
窓の外を眺めながら、私は呟きました。
たった数週間離れていただけなのに、あのボロ小屋――いえ、リフォーム済みのコテージが、ひどく恋しいのです。
「ああ。俺にとっても、あそこが本当の家だ」
ルーカス様が私の隣に座り直し、真剣な表情で向き直りました。
「ミラベル。到着する前に、君と交わしたい『契約』がある」
「契約、ですか? 雇用条件の見直しでしょうか」
私が首を傾げると、彼は懐から小さな箱を取り出しました。
パカッ、と開かれた中には、透き通るようなアイスブルーの宝石がついた指輪。
それは、彼の瞳と同じ色をしていました。
「……え」
「俺の専属管理人としての契約だ。期間は、俺の命が尽きるまで。報酬は、アイゼルシュタイン家の全財産と、俺のこれからの人生すべて」
彼は私の手を取り、その甲に口づけを落としました。
「俺には、君が必要だ。君の淹れる紅茶でないと喉が通らない。君が整えたベッドでないと眠れない。……君がいない世界は、俺にとって寒くて味気ない牢獄と同じだ」
それは、最強の魔導師とは思えないほど、弱々しく、切実な告白でした。
「君の平穏は俺が守る。面倒な貴族の付き合いも、魔物の討伐も、すべて俺が片付ける。だから君は、ただ俺のそばで笑っていてほしい」
彼は顔を上げ、潤んだ瞳で私を見つめました。
「……結婚してくれないか、ミラベル」
直球でした。
心臓が、早鐘を打っています。
私は潔癖症で、他人と触れ合うのが苦手でした。
汗臭いのも、泥臭いのも大嫌い。
でも。
目の前のこの人は、いつも清潔で、私のために綺麗であろうと努力してくれて。
何より、私の「生活魔法」を――私という人間を、誰よりも必要としてくれる。
「……条件があります」
私は震える声で言いました。
「なんでしょうか」
「お風呂は毎日入ること。脱いだ服はカゴに入れること。そして、私の作ったご飯は残さず食べること」
「……ああ、誓おう」
「それと」
私は彼の頬に手を添えました。
少し冷たくて、気持ちのいい肌。
「ずっと、私のそばにいてくださいね。『歩く冷蔵庫』さん」
ルーカス様が、破顔しました。
氷の貴公子が溶けた、春のような笑顔。
彼は私を引き寄せ、優しく唇を重ねました。
清潔で、温かくて、甘い口づけ。
不思議ですね。
キスというのは唾液交換行為だと思って忌避していましたが、彼となら、ちっとも不潔だと感じません。
むしろ、心が洗われるようです。
◇
「ただいま戻りましたー!」
私たちはコテージの扉を開けました。
数日間留守にしていましたが、私が張った結界のおかげで、室内には埃ひとつありません。
空気は澄んでいて、木の香りが迎えてくれます。
「やはり、ここが一番落ち着くな」
ルーカス様が軍服の上着を脱ぎ、ソファに投げ出しました。
……投げ出しましたね?
「ルーカス様。服はハンガーにと申し上げたばかりですが?」
「おっと、すまない。つい気が緩んで」
彼は慌てて服を拾い、照れ臭そうに笑いました。
まったく、手のかかる旦那様です。
でも、これを矯正していくのも、これからの私の楽しみの一つかもしれません。
そういえば、王都を出る前に風の噂を聞きました。
元婚約者のセリウス様たちは、爵位を剥奪され、平民として王都の下水道清掃の仕事に就いたそうです。
「臭い! 汚い!」と泣き叫びながらも、ノルマをこなさないとパンも貰えない生活。
かつて私が彼らのためにやっていた「汚れ仕事」のありがたみを、身を持って知ることになるでしょう。
まあ、今の私にはどうでもいいことです。
私の目の前には、もっと大切な仕事があるのですから。
「さて、お夕飯にしましょうか。今日は奮発して、特上のステーキですよ」
「手伝おう。……火加減は任せろ」
「あら、冷蔵庫係じゃなくてコンロ係に昇格ですか?」
私たちは笑い合いながら、キッチンに立ちました。
窓の外には、美しい夕焼けと、平和な森が広がっています。
攻撃魔法が使えなくても。
派手な爆発が起こせなくても。
お湯を沸かし、服を洗い、美味しいご飯を作ること。
そんな「当たり前の幸せ」を作り出す私の魔法は、きっと世界で一番素敵な魔法なのだと、今は胸を張って言えます。
「愛していますよ、ミラベル」
「はいはい、私もですよ」
極上のスープの香りに包まれて。
私たちの「快適で清潔なスローライフ」は、ここからまた新しく始まるのです。
いつまでも、末永く。




